マイティ井上亡くなる

 私は大のプロレスファンですが、子どもの頃TBS系テレビで放送されていた「国際プロレス」の試合シーンが強く印象に残っています(一番心に残っているのは、カール・ゴッチvsモンスター・ロシモフ戦です)。当時は、ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチ、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント、バーン・ガニア、ビリー・グラハム、ジョージ・ゴーディエンコ、ホースト・ホフマン、ドンレオ・ジョナサン、エドワード・カーペンティア、マッドドッグ・バション、オックス・ベイカー、ジプシー・ジョー、バロン・フォン・ラシク、ニック・ボック・ウィンクル、ブラックジャック・マリガン、アレックス・スミルノフ、ワフー・マクダニエル、ピーター・メイビアなど、そうそうたるレスラーが登場していました。これら外国人勢を、サンダー杉山、グレート草津、ストロング小林、ラッシャー木村らが、迎え撃っていました。今から思えばよくこれだけの実力派レスラーを呼ぶことができたものだと感心します。亡くなった吉原功社長の功績でしょう。

 この「国際プロレス」「全日本プロレス」などで活躍したマイティ井上さん(75歳)が11月27日に、神戸市内で心室細動のためお亡くなりになりました。寺西勇と並んでテクニシャンで愛すべき存在のレスラーでした。兄・譲二さん(77歳)によると、井上さんは1年前まで宮崎・都城で生活していましたが、糖尿病や腎臓に病を抱えるなど体調を崩していました。昨年譲二さんのもとに居を移し療養。元気を取り戻しましたが、兄に付き添われた通院の途中で倒れ、意識を失いました。すぐに救急車で病院に運ばれましたが、帰らぬ人となりました。心停止による突然死だったといいます。

 幼少期よりプロレスラーに憧れた井上さんは、高校を中退して国際プロレスに入門します。1967年7月にデビュー。175センチ、105キロの小柄な体で、負けず嫌いで頑張り屋でした。テクニックとセンス、パワーを併せ持ったファイトスタイルで主力選手に成長していきました。21歳で欧州遠征に行き、約2年間の欧州武者修行を経て、ヨーロッパ仕込みのテクニシャンとして日本に帰ってきました。3度目の挑戦で、1974年10月7日にスーパースター・ビリー・グラハムを破り、団体最高峰のIWA世界ヘビー級王座を獲得しました。第1戦は1-2、第2戦は1-1の引き分け。あと一歩のところでタイトルを奪えず、この日は「死んでもタイトルを奪う!」との気迫で臨みました。エネルギッシュで高い技術とパワーで団体を引っ張り、トップ選手に成長しました。ピンクとか派手な色のコスチュームも新鮮で注目を集めました。その後はアニマル浜口らとタッグを組み「和製ハイ・フライヤーズ」IWA世界タッグ王座にも輝きます。AWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとはダブル・タイトルマッチで引き分けました。ドロップキック、フライングヘッドシザーズから、変型セントーンの必殺技・サマーソルト・ドロップが代名詞でした。井上さんは柔道とボディービルで体を鍛え、空中殺法も得意で、エドワード・カーペンティアにならった「和製マットの魔術師」の異名をとりました。小さな巨人でした。

 1981年に国際プロレス崩壊後には、ラッシャー木村アニマル浜口新日本プロレスに移籍しましたが、井上さんは行動を共にせずに馬場さんの全日本プロレスを選びました。新日本の空気感が嫌いだったようです。NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座世界ジュニアヘビー級王座などを獲得しました。それなりに活躍はしましたが、レスラーとしての魅力や実力的にはジャンボ鶴田に比肩するものを持ちながら、メインイベントに登場することはほとんどありませんでした。全盛期の井上は、もし実現していれば猪木藤波長州らともいい試合をするほどの実力を持っていました。その悲哀を感じながらレスラーの晩年を過ごしていました。1998年6月に現役を引退し、レフェリーに転向。2010年5月、ノア後楽園ホール大会「マイティ井上レフェリー引退記念興行」を最後にレフェリー業からも引退しました。長年にわたり、多くのファンから愛されたレスラーで、国際プロレス時代に対戦経験のあるアンドレ・サ・ジャイアント(当時モンスター・ロシモフ)のよき相談相手でもあり、可愛がられ、非常に仲が良かったことでも知られます(アンドレ井上のことを「ミッキー」と呼んでいました)。♥♥♥

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