松下幸之助、成功の理由

 尊敬する故・松下幸之助「なぜ成功したんですか?」と、「成功の理由」を聞かれた時に、彼が答えたことは、なんとこんなことでした。
   ①身体が弱かったこと
   ②学歴がなかったこと
   ③やはり、強運であったこと

 この三つの理由をあげたのです。エーッ??!これは解説をしないとちょっと理解できないでしょうね。特に身体が弱いこと、学歴がないことなどは、普通の人にとっては成功の条件とは絶対に言わないはずです。これらのことはきっと運が悪い理由や原因に挙げられるものでしょう。松下さんは違いました。

 松下幸之助は23歳で独立したのですが、それは、「これは便利だ。きっと世間で受け入れられる」と自信を持って開発した二股ソケットを、当時勤めていた大阪電灯の上司から「そんなもんダメや!」と却下されたことがきっかけでした。この理由の他にもう一つ、身体を養生させたいというのがあったということも事実です。当時は日給制でしたから仕事に出ないと日銭が入りません。しかも、当時の幸之助は身体がひ弱で、すでに喀血もしていました。だから勤め人が勤まりません。そこで奥さんをもらって独立したのですが、床に寝ながら養生し、丁稚小僧に指示を出す生活が続きました。「あの店に行ってご主人に会ったら、こんなふうにご挨拶して品物を納めてきなさいよ」「この番頭さんには、こう言ってお金をいただいてきなさい」という具合です。なにしろ当時の丁稚小僧というのは、ほんとに小僧、つまり子供です。幸之助自身、丁稚に出された年は満9歳でした。ところが、その丁稚小僧が幸之助の想像以上の仕事をして帰ってきたことが何回もあったそうです。そこで彼は痛感します。自分がもし元気だったら全て一人でやってしまって、結果として部下や店員は育たなかったのではないだろうか?しかし、自分の身体が弱かったおかげで、人に仕事を任せざるをえない。任せて失敗した経験や失敗しない任せ方の体験を通して、人はどうしたらやる気を起こすか、どうしたら働きがいを持つかを体得する。任せるコツ、人を動かすコツを呑みこむことができる。だから、世界に先駆けて事業部制を打ち出した時、実際に事業部を任せる人材には困りませんでした。それは人材が育っていたからです。「成功するには運が必要だ」。さらに、幸之助はこう言います。学歴のある人はエリート意識からか、並みの人間の意見などには耳を貸さない人が多い。ちゃんと聞いてくれないのなら、誰が話してやるものかと思うのは当たり前ですね。だから、耳を貸さない人に情報が届くわけがありません。ところが、尋常小学校を四年で中退している幸之助は、学歴がないため、「周囲の人がみんな偉く見えた」と言っています。学歴のないおかげで、取引先のアドバイスはもちろん、丁稚小僧の提言も素直に聞くことができました。「苦情を言ってくる人には笑顔で接せなあかん」幸之助はよく言っていました。よくよく考えれば、クレームとは改善提案すべき貴重な参考意見のことです。それを無視しないで、誠実に対応することで企業体質を強くしてきたわけです。なにより、「自分の意見をちゃんと聞いてくれた」という事実が、顧客に満足感を体感させるものです。そして、幸之助の人間的な深さは、その運命観にあると思います。「自分が成功したのはやっぱり運がよかったから」と答えていますが、実際、原始時代や戦国時代に生まれず、明治・大正・昭和・平成とエレクトロニクスの勃興、発展の時代を生き抜くことができ、しかも衰退産業や構造不況産業ではなく、発展産業の中に身を投じることができました。これはどう考えても、「運」以外の何ものでもありません。この世の中、自分の力や努力で切り拓けることは確かにあるでしょう。しかし、人智や人力を超えた大きな流れが脈々と私たちの人生の奥底で流れていることを、頭に叩き込んでおかなければならないのです。

 幸之助の人生を振り返っておきましょう。幸之助は明治27年11月27日、和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市郊外)で生まれました。生家は元々、村で上位に入る小地主だといいますから、かなりの資産家だったのでしょう。ところが幸之助が4歳の時、父親の政楠が米相湯に手を出して失敗。先祖伝来の土地を人手に渡すことになります。大阪に働きに出た父から母のもとに、「幸之助も尋常小学校の四年生だ。もう少しで卒業だが、大阪の火鉢店で小僧が欲しいという話がある。ちょうどいい機会だから幸之助をよこして欲しい」という手紙が届きました。幸之助は汽車に乗って単身、大阪に向かいました。これが明治37年11月23日、満10歳の誕生日を迎える4日前のことでした。これが幸之助の社会人としてのスタートになりました。それから、幸之助は平成元年4月27日、享年94歳で亡くなるまで、文字どおりダイナミックな人生を歩むこととなります。幸之助は火鉢屋に奉公に上がるも、先方の都合ですぐに店を移らねばならなくなり、主の紹介で大阪の船場にある五代自転車店に、また小僧として勤めることになりました。当時の自転車店といえば、扱う金額からして現代に置き換えれば一台100万円という代物でしたから、自動車販売会社の感覚でしょう。ここで、小僧ながらも商売のイロハを体得し、後日、それを幸之助自身「船場学校」と言うほど、後の商売人としての基礎をこの時期に培いました。ところが幸之助は15歳の時、町を走る市電を見て電気事業に引かれ、6年あまり勤めた五代自転車店を辞めます。実子がいないために、わが子同様に可愛がってくれた店主夫婦に、面と向かって直接辞めたいと言えない幸之助は、暇の願いをしたためた手紙を置いて、着替えだけを持って店を後にするほどでした。そして、大阪電灯(現在の関西電力)への入社を志願します。しかし、あいにくと欠員がありません。そこで3ヵ月間セメント会社で臨時運搬手として働くことになったのでしたが、その時、幸之助は運命を変える出来事を体験することになるのです。

 幸之助は、毎日大阪築港の桟橋から船に乗って仕事場に通っていました。ある日、船べりに腰かけていると、一人の船員が幸之助の前で足を滑らせ、その拍子に幸之助に抱きついたからたまりません。そのまま、幸之助も真っ逆さまに海に落ちてしまったのです。もがきにもがいてようやく水面に顔を出しますが、船はすでに遠くへ行っています。夢中でバタバタやっていると、事故に気づいて船が戻ってきてくれて、ようやく引き上げてくれました。「夏でよかった。冬だったら助からなかった」と、自分の運の強さを感じました。

 また、松下電気器具製作所松下電器の前身)設立と相前後して起こった事件で、自転車に部品を積んで運んでいる時、自動車と衝突し、幸之助は5メートルも吹っ飛ばされてしまったことがあります。気づくと線路に放り出されていました。そこへちょうど電車がやって来ました。「やられる!」と目をつぶりましたが、電車は急ブレーキをかけて、幸之助の直前で止まりました。部品は散乱、自転車はめちゃめちゃになったものの、自分の身体はかすり傷一つ負っていませんでした。このことが自身の運の強さを実感させることになりました。

 幸之助は三男五女の末っ子として生まれたものの、兄弟姉妹は肺尖カタルで次々に死亡し、幸之助が20代の時には、親兄弟全員が鬼籍に入ってしまっていました。しかも自分自身も23歳の時、南海電車の中で血を吐いて倒れています。こんな幸之助が、こうした体験を通じて「自分は運が強い。滅多なことでは死なない」「これほどの運があれば、ある程度のことはきっとできる」と確信したことが、その後の仕事を展開する上で大きな自信になったと言います。幸之助は大学生相手の講演会でも、この時の体験談をよく話しました。勉強ができても運の悪い人間はダメだというのが、幸之助の考えなのです。それは晩年、私財を投じて心身を傾けた松下政経塾の入塾生の最終面接の時にも現れていました。特に最終選考は幸之助自らが応募者に直接面談したのですが、終始、物静かでやさしい顔つきの幸之助でしたが、「運のない人間はあきまへん。その次は、愛嬌ということでんな」と。合否のポイントとして、「運と愛嬌のある人間かどうか」を見極めていたのでした。将来、国の経営を任せる人材になるかもしれない人間が、運が悪いのでは話になりません。また、幸之助自身、「女は愛嬌とはよく言うが、男も愛嬌だ」とよく言っていました。政治家とてファン投票と同じで、有権者に嫌われたらいかに立派な政策を持っていても、それを活かせる場には立つことはできません。ファンあっての商売なのです。この松下政経塾を卒業したのが、今の高市早苗総理です。入塾面接の前夜、父から「運の良さそうな顔をして」と助言されました。面接後に職員がカメラを向ける「目いっぱいの笑顔をつくった」そうです。♥♥♥

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