西村京太郎先生のアルバイト時代

 以前にこのブログで、大好きな「西村京太郎先生の苦労」と題して、先生のベストセラー作家になるまでの苦労話をまとめたことがあります。⇒コチラです その中で、先生が経験されたさまざまなアルバイトについて、チョットだけ触れました。今日はもう少し詳しく、先生の苦節アルバイト時代のことをご紹介してみたいと思います。

 西村京太郎先生は、昭和23年に東京都立の電機工業学校(エンジニア志望)を卒業後、たまたま新聞で見た戦後初の「第1回公務員試験」を受けて合格して、「人事院」に11年間勤められます。来年30歳になるというときに、上司から「お前も、そろそろいい歳なんだから結婚しろ」と言われ、知り合いの娘さんの見合い話を持ってこられます。そうすれば係長ぐらいには推薦してやると言われ、結婚したら役所を一生辞められなくなると思って、29歳で退職されます(東大出しか出世できない時代で、工業高校出の先生はよくて課長補佐止まり、これでは面白くないと思って、辞めようとずっと思っていました)。当時、急に売れ出した松本清張さんの小説『点と線』や、黒岩重吾さんの『背徳の雌』などを読んで、なんだこれぐらいだったら、自分でも書けそうだな。簡単に書けそうだから作家ならなれるだろう」と安易に思ってしまいます。役所を辞めて作家になります」と課長に言うと、辞めることはないだろう。勤めながらだって書けるゾ。広報に回してやるから、そこで勉強しろ」と慰留されたといいます。当時、生命保険会社に勤めながら作家になった源氏鶏太さんのような例もありました。二足のわらじで勤めながら書いていて、それでダメだったら「あの時辞めておけば、いいものが書けたかも知れない…」と後悔するのは嫌だと思って、スパッと辞めてしまいます。さすがに、「役所を辞めた」とは長男の出世を期待しているお母さんには言い出せず、朝は「行ってくるよ」と役所に出かける振りをして一応家は出ます。上野の図書館へ行って午前中は小説の原稿を書き、午後からは浅草で3本立て100円の映画を観ていました。毎月きちんと生活費はお母さんに入れていましたが、それは11年間役所で働いた退職金(11ヶ月分の給料)と失業保険でまかなっていました。ついにそれも底をついてしまいます。「実は、役所は辞めていたんだ」とお母さんに話したら、泣き崩れてしまいます。仕事を探そうにも、30歳を過ぎると事務系の仕事はありません。ここからが、先生のアルバイト苦労時代です。

 「まったくないわけじゃないけど、いつも何とかなるんじゃないか、という気でいましたね。楽観的というよりも、俺は作家になるんだ、と大いにうぬぼれていましたし、それだけの、自信もあった。変に、謙遜しちゃうとかえってダメ。自分が一番うまいんだぐらいに思っていれば、いいんですよ。そうすれば、迷いも不安もなくなる。ずっと後になって、山村美沙さんにいわれたことがある。西村さんは小説を書くしか能がないんだから、迷わなくて幸せだ、とね。やはり単純なほうがいいんですよ。」西村京太郎談)

 まずは、板橋パン屋にトラック運転手として住み込みで働きます。住み込みで食事が出ますから、1銭も使わずにお金を貯められるのが魅力でした。当時日給が500円。月に1万5000円です。十代から二十代の若い店員たちと大部屋に寝かされて、朝は4時起きです。節約して4ヶ月か5ヶ月ぐらい働いて貯めたお金をお母さんに渡して、しばらく原稿を書く。働いているときには、くたびれて原稿なんて書けません。で、また4ヶ月働いてはお金を貯め、また原稿を書いては懸賞に応募するということの繰り返しでした。パン屋の仕事は朝4時起きで、肉体労働で大変です。5時頃にライトバンにパンを積んで、各小売店に配達に廻ります。箱にパンをいっぱい詰めて運ぶんですが、若い連中はいっぺんに二箱ずつ運ぶのに、ただ一人三十代の先生は一つしか持てない。人が一回で済むところを二回行かなくてはならないので、持ってくるのが遅いと小売店のおばさんに叱られました。早い時間に届けたお店はいいんだけれど、最後の方のお店になると10時頃になってしまい、今頃持って来たって、サラリーマンが買う朝のパンが売れないじゃないか!」と怒られます。次の日は配達ルートを逆にして〔笑〕廻りますが、結局最後には同じ事で怒られます。辛いバイトでした。パン屋は、パンの耳の部分やカステラの端の部分がいっぱい出ます。あれが美味しいので、時々顔を出したお巡りさんに「どうぞ、どうぞ」と気前よく上げたりしていました。こうしておけば、事故を起こしても少しは多めに見てもらえるかな、と姑息なことを考えていたんです〔笑〕。

 半年ぐらい、探偵もしておられます。結婚の調査などをやるのですが、それだけだとあまりお金になりません。悪い探偵は、依頼者に報告すべきことを、逆に相手のマズイ点をネタに恐喝まがいのことをやったりもします。西村先生がやっていたのは身上調査で、新卒の大学生が企業に入る際に、身元を調べるというものでした。1件について5000円、先生の手元に入るのはたった20%の1000円。こんな安い仕事に時間をかけて真面目に調べていては割に合いませんね。先生は出身大学の担任の先生の所へ行って、決まり切った調査項目をどんどん先生に聞いていく、先生の方としてもダメだなんて言えませんから、「これ全部大丈夫ですね」でOK。ものの数分で〇印がズラリと並んで終了。しかもまとめて10件ぐらい持って行って、いっぺんに片付けてしまう。そうすれば1日でそこそこのお金になる、といううまいやり方でこなしておられました。

 休みの日には、朝から並んで晩まで、渋谷の道玄坂の「パチンコ屋」でずっと立ちっぱなしでやっておられます。パチプロとまではいきませんでしたが、腕はかなりうまく、景品の外国煙草にたくさん変えては、探偵の同僚などに売って、プラスアルファの収入を得ておられました。

 土曜・日曜日には東京・府中競馬場の警備員もやりました。日給500円でした。内部情報が流れてきたりして、本気で馬券を買ったりもしましたが(本来は禁止)、たいていは偽情報でみんな負けていました〔笑〕。

 生命保険のセールスマンもやりました。「昼食付き」につられて1週間ぐらい講義を受けてのアルバイトです。昼食代として200円くれました。口下手な先生は営業職には向きません。契約は一件も取れませんでした。

 雑誌や書籍の取り次ぎをやる東販」でも働いておられます。東京・飯田橋に、手袋にスニーカーで集まっては、返品されてきた週刊誌などを20冊ぐらいずつ束にしていくという作業です。このときに、雑誌の返品ってすごい数なんだな、とびっくりしたそうです。

 こうやって、いろいろなアルバイトを転々としながら、お金を貯めては原稿を書き、またお金がなくなったら働きに出るという生活の繰り返しでした。それでも書いた物はさっぱり売れません。年に1冊か2冊は本を出させてもらっていましたし、大作家に頼めない地方新聞にも、新人作家と挿絵描きとセットで1万円といった値段で書かせてもらっていました。それでも1年間連載すればある程度のお金にはなりますからね(月10万円程度)。先生に転機が訪れたのは、『寝台特急(ブルートレイン)殺人事件』でトラベルミステリーを書いたとき。増刷に増刷で100万部を突破し、ようやく脚光を浴びたのが先生48歳のときです。29歳で仕事を辞めて、以降20年間の下積み時代です。「本当はトラベルミステリーは三作ぐらいで打ち止めにするつもりだったが、売れすぎたので他のものが書けなくなっちゃった」と明かします。このように、先生は小説デビューはしたものの、長~い間売れない作家だったんです。デビュー作から100冊目までが約20年もかかっています。先生が34歳から55歳の間です。ところが、100冊から200冊目までがわずかに7年、300冊目までは8年で到達しています。400冊目までが6年、500冊目も6年で到達しています。そして2017年12月発売の『北のロマン 青い森鉄道線』(徳間書店)で、とうとう記念すべき600冊を突破しました。この間わずか5年です。やはり成功の秘訣は「成功するまでやめない」ことですね。このことは、生徒たちにもいつも話すことです。先生も現在88歳、目標の635冊まであと2年です。❤❤❤

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