『京都に女王と呼ばれた作家がいた』

 西日本出版社が、7月14日、ベストセラー作家・山村美紗の生涯を描いた花房観音『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』(初刷7000部)を発刊しました。存命中は、他の作家に京都を舞台にしたミステリーを書くことを絶対に許さなかった、新聞広告で自分より名前が大きく掲載された作家がいると、編集者を呼び出しては激怒、謝罪させた…。数々の伝説に彩られた女王・山村美紗さんの生涯を、「ふたりの男」との関係を軸に描いた作品です。

 山村美紗さんは、出版市場がピークを迎えた1996年に人気絶頂の中、帝国ホテルの一室で執筆中に急逝しました。まだ出版業界の華やかなりし時代と共に、女王はこの世を去りました。生前200冊以上の本を出して、その数多くの作品がテレビドラマ化され、華やかなキャラクターでも多くの人に知られるその一方で、文学賞とは縁がなかったことへのコンプレックス、拠りどころを持てなかった不安感を内に秘め、数多くのプロットを残しながらお亡くなりになりました。その思いや、存命中はほとんど表舞台に出なかった夫・山村 巍(やまむらたかし)さん、「同志」とも「パートナー」とも言われたミステリー作家・西村京太郎先生との関係、没後も二人の男性を執着させる作家としての存在感をまとめたのが、この一冊です。私は西村京太郎先生の大ファンなので、この本、とても興味深く読了しました。

 西村先生は、美紗さんの死後4年後の平成12年(2000年)に、二人の恋と葛藤を描いた小説『女流作家(続編の『華の棺』は2006年刊)を刊行されました。⇒詳細はコチラに書きました  自分の手に入らなかった女への「執着」、男と女の「狂気」、世間の常識とはかけ離れた二人の異常な関係性が描かれていました。この二冊の本の中にも、私たちは山村美紗さんの人となりをはっきりと垣間見ることができます。

 作者は、京都在住で「山村美紗以来の京都を描く女流作家」といわれる花房観音(はなふさかんのん)さん。山村さんの作品は、あれだけのベストセラー作家であったにもかかわらず、もう現在書店には並んでいません。これだけの人気作家でさえ、死後20年で書店で入手しにくい。流行作家の悲しさ、山村美紗という作家がいたことを残しておきたい」と、執筆に至りました。事前注文は好調だったそうで、発刊前からこれほどマスコミ取材が重なったことはなかったそうです。死後20年経過して、山村美紗を知らない人も増えているので、まずは書店員さんに読んでほしい、文芸・京都本コーナーなどで展開を勧めたい、と出版元の社長さんは言われます。当初、この本を出したいと、花房さんが出版社の人たちに話したとき、皆さんが「美紗さんのことを書くとなると、西村京太郎さんに触れないわけにはいかないでしょ。だからダメです」と言われたそうです。90歳の現役で今でも活躍する大物ベストセラー作家のタブーに触れることは、著者の花房さんが仕事を失う不安と恐怖に立ち向かうことでもありました。

 さて、副題の「ふたりの男」とは、ベストセラー作家の西村京太郎氏と、夫の山村巍(やまむらたかし)氏です。まだ美紗さんが無名時代にファンレターを送り、それをきっかけに才能と美貌に惚れ込んだ西村先生が京都に移り住み、やがて美紗さんの隣の家に住むようになります。⇒コチラに詳しく書きました  二人の家は地下でつながっていました。山村さんの方から西村さんの家には行くことができるけれども、西村さんの方からは山村さんの家には入ることができません。西村氏との関係は広く知られましたが、夫の存在はほとんど表に出ませんでした。しかし決して不仲だったわけではありません。元旅館を改装した豪邸の本館と別館に、美紗さんと西村氏が住み、夫は向かいのマンションから妻のもとに通う。3人の関係は、まさに「事実は小説より奇なり」です。

 本書で何より印象的な描写は、女王と呼ばれ、派手好き、勝ち気な性格で知られた山村美紗さんが、実は病弱な体に苦しみ、主要な文学賞の受賞歴の無いことに深いコンプレックスを抱えていたことでしょう。だからこそ、流行作家であることにこだわり、自身に関するうわさやスキャンダルも宣伝に利用した。夫はそんな妻をそっと陰で支え、ベストセラー作家は同志として男社会の出版社と戦う盾になったのです。

 山村美紗さんは京都に根づき、京都であることをこれ以上ないほど意識して作家として活動した人、著者の花房観音も京都在住の女性作家で、京都の女たちの微妙な内面を描きまくっている人です。

 編集者を叱り付けたり、新聞広告での自分の扱いに怒ったりする反面、ベストセラー作家になった後でさえ、売れなくなったらどうしよう、もっと書かなくては、もっと頑張らなくては、と自分を追い込んでいたといいます。文学賞を取らずにデビューしたコンプレックスや玄人受けしない大衆性に、最後までコンプレックスを持っている人だった。身体が弱いのに、命がけで大量の本を送り出し、長者番付に載り続けるために節税は一切しない。昼と夜とを完全に逆転させ、1日20時間を執筆にあてる生活を30年ほど続けました。年齢も偽っていました。公式プロフィールによれば、1934年に京都で出生となっていますが、実際は1931年生まれです。京都に生まれ、少女時代を戦前の日本統治下の朝鮮漢城(ソウル)で育ち、敗戦による引き揚げ者でした。幼い頃から体が弱く、ほぼ寝たきりの少女時代を過ごし、作家になってからも、喘息や慢性盲腸炎に悩まされ、苦しみながらの執筆でした。満身創痍の体を華やかなドレスで包み、お姫様のようなヘアスタイルをウィッグで保ちながら、締め切りに次ぐ締め切りをこなしていました。生前は他の作家が「京都のミステリー」を書くことを絶対に許さなかったといいます。ずっと体調が悪く、東京まで移動する体力がないので、ベンツのキャンピングカーで横になったまま上京し、帝国ホテルのスイートルームで執筆中に心臓発作で壮絶な急死(62歳)を遂げておられます。

 新しい電化製品や機械が大好きで、テレビを自作したこともあったそうです。幼い頃、娘の紅葉(もみじ)さんが外で遊んでいて、転んだりするとすぐに美紗さんが駆けつけてきてくれました。何かあるとすぐに来てくれるものだから、紅葉さんは「ママはスーパーマンなのかな」と思っていたら、実はワイヤレスマイクを仕掛けていて、小説を書きながら娘の様子を気にかけていた、というエピソードも面白く読みました。生い立ちや作家として活躍しだす前のエピソードも面白いけど、何より大物作家たちを次々虜にして、西村京太郎と並びの邸宅に住み、向かいのマンションに夫を住まわせていた、その女性としての魔性に強く惹かれます。

 本の中では、影の存在であり続けた夫・山村巍(たかし)さんの存在が際立っています。美紗さんの生きているうちは、表に出ることはなく、かといって経済的に依存するわけでも、マネージャーのようになるわけでもなく、数学の教師の仕事を続け、ひたすら家庭内のサポートと身体のサポートをしながら、日陰の存在であり続けました。そうして彼女が他界するまでその位置に留まり続け、亡くなってから初めて、思いを抱えて彼女の絵を描くことを決め、その絵画を発表しました。とても穏やかな紳士的な方で、ただひたすら美紗さんを献身的に支え、「陰の存在」に徹しておられました。花房さんは、温かい理解と細やかな分析で、「他の男とパートナーだった亡き妻をモデルに絵を描き続ける夫」としての巍さんの真実に迫り、「美紗が作家になった時に、陰の存在になると決めていて、自分はずっと二人の間で、美紗のためだと思って存在を消して陰の存在として生きてきた」という夫の生き様を描いておられます。お互いに決して愉快な存在ではなかったことでしょう。そこに繰り広げられる喜び」「悲しみ」「怒り」「嘆き」「悔しさ」「憎悪」「後悔」を拾い上げて執筆しておられます。

 美紗さんが小説家になるため苦節10年の努力をし続けられたのも、さんが「女は家にいるものだ」という価値観の持ち主ではなかったこと、良妻賢母として生きることをしない彼女を理解し続け、一切束縛をしなかったことが大きいと思われます。デビューが決まった時は誰よりも喜んで、作品を学校の生徒に配りました。そして「美紗が売れっ子になるにつれ、『夫』の存在が消されていった」のです。

 よくぞ文壇のタブーにひるまずに、執筆・出版されたと思います。巻末に収められている「山村美紗年表」「山村美紗著書リスト」も労作です。♥♥♥

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