ストロング小林亡くなる

 伝説のプロレス団体・国際プロレスの元エースで、アントニオ猪木(78)との歴史的名勝負「昭和の巌流島」で知られる元プロレスラー、ストロング小林(すとろんぐ・こばやし、本名小林省三)さんが、昨年12月31日にお亡くなりになりました。81歳。東京都青梅市出身。現役引退後はストロング金剛の芸名で、タレントとしても活躍されました。

 ストロング小林は国際プロレスを退団後、1974年3月19日に、新日本プロレス蔵前国技館大会で、アントニオ猪木の持つNWF世界ヘビー級王座をかけて激突しました。日本人トップ同士のシングルマッチは当時のタブーを破った大一番で、プロレス界の歴史を大きく変えることになります。1万6500人超満員の観衆の前で、猪木のジャーマンスープレックスホールドに敗れたものの、日本プロレス史に残る伝説の名勝負となりました。病気療養中のアントニオ猪木さんが(年末の闘病番組はショックでしたね)、戦友の死を悼みました「ストロング小林選手のご冥福を心よりお祈り致します。小林選手との一戦は『昭和の巌流島』と呼ばれ、入り切れないほどの多くの観衆に観ていただきました。小林選手もこの試合を人生最高の試合と言ってくれ、私も格別な思いがあります。お互い、若くベストな時に勝負ができたことが走馬灯のように思い出されます。ストロング小林選手、ありがとう」と特別な思いを明かしました。

 小林さんは国鉄(現JR)勤務中にスカウトされ1966年に国際プロレスに入門。翌1967年には日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」としてデビューしました。1968年から素顔に戻ると、187センチ、125キロの体格からなる驚異的なパワーを武器に団体の大黒柱として大活躍しました。車が大好きで、巡業中も移動バスに乗らずに自分で車を運転して移動していました。プライベートを守る、そういうところが団体での孤立を深めていきました。当時のマッチメーカーのグレート草津から干されて、IWA世界ヘビー級チャンピオン(同王座を1973年から25回防衛する日本記録(後にジャイアント馬場の38回に破られる)を保持)であるエースとしての扱いをされなくなったことから、確執が生まれ、突如として国際プロレスに辞表を提出しました。私は年末からちょうど福留崇広『昭和プロレス禁断の闘い 「アントニオ猪木対ストロング小林」が火をつけた日本人対決』(河出書房新社、2021年)を読んでいたので、ここら辺の確執の事情は詳しく知ることができました(病に伏せる小林、猪木と新間氏との出会い、旗揚げ直後の新日の苦悩、全日・馬場との駆け引きなどなど、試合に至るまでの経緯、情勢を、これでもかというくらい積み上げた本で、ファンにはたまらなく面白い430ページ)。国際プロレスは契約違反を主張し、告訴。戦場を失いかけたストロング小林は、極秘に動いていた東京スポーツ新聞社が仲裁に入り、違約金として1,000万円を国際プロレスに支払って(実際には1,500万円だったと上の本にはありました)、一時的に東スポ所属レスラーとして伝説の一戦を迎えました。90分1本勝負の決闘は、猪木の技と小林の力がぶつかり合い、手に汗握る死闘となりました。鉄柱で額を割り流血した猪木が、最後はバックドロップからジャーマンスープレックスホールドを浴びせ29分30秒フォール勝ちしました。フィニッシュのジャーマンでは、小林の巨体を投げきった衝撃で、猪木の両足が宙に浮いたほどだったことは有名な事件です。1954年の「力道山-木村政彦」戦以来、日本選手同士の対戦はタブーとされていた中での激突は「昭和の巌流島」と呼ばれて大きな話題になり、歴史に残る名勝負となりました。レスラーとしては、もっと大成してもよかったと思える実力者でした。

 1984年の引退後は、芸能界に転身し「ストロング金剛」という芸名で、映画やドラマ、バラエティー番組などに出演。TBS「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」の悪役として参加者を追い回し恐れられました。

 次の言葉は、生前のストロング小林が、今のプロレス界へ残した不満です。♥♥♥

 今のプロレスはね、レーザー光線とかスモークとかさ、そういう演出をしているけれど、あれはマイナスだと思うよ。フリッツ・フォン・エリックなんて試合前にリングをのし歩くだけで、何が起こるんだろう?ってお客さんに期待感を抱かせたじゃない。あれが最高の演出だよ。観客が持っていない鍛え上げた肉体を見せて、お客さんに『やっぱプロレスラーはすげぇや』と思わせる。ね、これがプロレスの本当の姿だ。その原点を忘れないでほしいね。  ―『プロレススキャンダル事件史』(宝島文庫、2009年)

【追記】 ストロング小林国際プロレスを離脱した際に、新日本プロレスの新間 寿営業本部長と相談の上、全日本プロレス馬場新日本プロレス猪木に挑戦表明を内容証明郵便で送っています。その挑戦状を猪木は受諾します。新間さんは、慎重居士の馬場は根回しなしで挑戦を受けることはまずないと踏んでいました。日本人対決を待ち望むファンは、挑戦状を勇敢に受けた猪木を支持し、馬場には失望するだろうと考え、ライバルの馬場全日本プロレスにダメージを与えることを狙っていたのです。もし予想を覆して馬場が受諾すれば、猪木・馬場・小林日本選手権という展開に持ち込めると計算していたのです。根回しなしで馬場に挑戦状をおくることは、プロレス界の不文律を破壊するルール違反でした。業界の掟を破ってでも、猪木小林の日本人対決を実現するだけでなく、ライバルの馬場全日本プロレスにダメージを与えることに執念を燃やした新間さんの先見性に脱帽します。彼はファン心理を読むことにかけても類いまれな才能を持っていました。「蔵前国技館がはち切れそうなくらい入ったんですから、通路にまで人が座って、1万6500人っていう人が入った。ストロング小林アントニオ猪木戦は私が見た中で最高の試合だった」と振り返ります。「決して人の悪口を言わない人が、6メートル44のリングに入ると吹っ切って戦う、本当に真剣で真面目な人だった」と偲びました。

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