「脚下照顧」

 曹洞宗大本山で有名な永平寺は、1244年に道元というお坊さんによって開かれたお寺です。今から770年前、鎌倉時代のことです。その永平寺の入口に、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と書いた札が掲げられています。道元和尚「脚下照顧」という漢字の意味は、「足下を照らし、顧みよ」ということです。つまり、他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見て、自己を反省しなさいという意味です。でもそれだけではいけない。考えているだけではダメで、行動することが必要です。行動しなければ、何も変わりません。行動すれば、何かが変わる。ということは、最初はわけが分からなくても、行動し続けることによって、自分自身の意識や考え方が変わってくることもあるのです。考え方が行動を変えますが、行動してはじめて結果が変わり、行動により考え方が強化されるのです。そして、人生を変えたい、あるいは良くしたいなら、まず行動を変えてみるのです。

 ここから転じて、「はきものをきちんとそろえましょう。はきものをそろえることで、自分の行いをよくみて考えましょう」ということを伝えています。はきものをそろえることには、どんな意味があるのでしょうか。知人のお家に伺ったとき、靴をそろえて脱ぐのは当たり前の礼儀ですね。トイレのスリッパは、次に入った人が履きやすいように、かかとの方を手前にそろえて脱ぎます。次に使う人も気持ちがよいのではないでしょうか。また、学校の靴入れの靴がきちんとそろえられていると、今日も一日、がんばって勉強しよう、という子どもたちの心意気が伝わってくるようで嬉しくなります。

 長野県の篠ノ井にある、円福寺という檀家三十軒ほどの小さなお寺の住職をされていた故・藤本幸邦(ふじもとこうほう)先生がこの考えを分かりやすく詩に書かれています。このお寺には恵まれない子どもたちのための施設である愛育園や幼稚園が併設されています。そこでは、施設の子どもや園児たち全員が、履物をそろえることを徹底して教えられています。履物をそろえると何が変わるか?日々それを習慣にしていると、履物の乱れが気になるようになります。よそでも自然に人の履物をそろえるようになります。すると気持ちが謙虚になります。この小さなことを続けるだけで心が整います。「脚下照顧」を具体的な行動に移したものが、「はきものをそろえる」ということなのです。

はきものを そろえると 心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら だまって そろえておきましょう
そうすれば きっと 世界中の 人の心も そろうでしょう

私が島根県立津和野高等学校に勤めていた頃、この詩が職員トイレに貼ってありました。すぐにメモしたのを覚えています。

 はきものをそろえるということに関して、思い出されるのは、あの「V9」(9年連続日本一!)の偉業を成し遂げた巨人軍の川上哲治(かわかみてつはる)監督です。川上さんはミーティングにおいても、野球技術面のことはほとんど語らず、選手の人間教育に徹したということです(亡くなった野村克也さんが憧れた監督です)。「人間とは?」「人生とは?」「仕事とは?」といった話ばかりだったと聞きます。トイレのスリッパの脱ぎ方まで注意し、「あとで使う人のことを考えて、きちんとそろえて脱ぐように」と厳しく選手に指導したと言います。そのことは、川上さん自身が著書にその理由まではっきりと書いておられます。『勝機は心眼にあり 球禅一如の野球道』(ベースボールマガジン社、1991年)という本です。ちょっと引用してみますね(下線は八幡)。

 私は選手の私生活面では、これは前にも述べましたが、チームワークを徹底するためにと考えて、自分勝手をやめさせ、相手のことを考えるように強調した。試合中の何百分の一秒の中で、相手のことを考えてプレーするということは、なかなか出来ないものです。しかし、そういうことを平素から癖をつけておけば、瞬間的に、ちょっとでも相手のことを考える気持ちがあったら、目的のないプレートか、エラーを招くような、いい加減な球なんか、投げたりはしませんからね。そういうことを徹底させるために、私生活での躾をちゃんとしていったわけです。
 相手への思いやりを忘れないためにはどうしたらいいか。ミーティングでは、野球のことだけでなくて、子供の育て方や、お金の貯め方とか、私生活面の指導なども、いろんなことをやった。
 遠征先の宿舎などでは、スリッパの脱ぎ方ひとつにしても、厳しく注意した。乱雑にやったら他人に迷惑をかける。
 例えば、トイレには下駄やスリッパなどがあるでしょう。これを、自分の用が済んだら反対向きに揃えて出てこい、乱雑に脱ぎ捨てて来るもんじゃないんだ。そうすれば次に自分が行った時でも、乱雑になっているよりはちゃんとこっち向きに揃っていたほうが気持ちがいいだろう。これが作法の基本なんで、こういうことすべてに応用してやっていけ、と。
 これはチームプレーにつながる問題です。チームプレーというものを確実にやるために、みんなが共用で使う場所があるわけですが、そういうところのマナーや考え方、やり方を教えていくわけです。
 こうして、多少とも時間のある時に、次の人のことを考えてこうしたことが出来てないと、ジャイアンツの野球は自分のほうから陰で相手を助けようということで連繋された野球で試合を進めているから、打ったり、投げたり、守ったりするような個人の技がいくら上手になったとしても、そういうことがちゃんと出来なければ、レギュラーの試合には出られないんだ―という教え方です。(pp.153-155)

 さらに私が忘れられないのは、将棋の内藤国雄九段が、後の名人中原 誠さんを評して書いておられた言葉です。♥♥♥

『初めてタイトルをとった第15期棋聖戦の対局の時でしたけど、僕は5分間の休憩時間をとってトイレに立ったんですわ。トイレの戸を開け、ふと足元を見たらスリッパがキチンと揃えられているんですわ。つま先を中に向けて、あとから入ってきた者が履きやすいように。びっくりしましたね。実は、僕が入るほんの直前に、対局相手の中原 誠がトイレに立ってたんです。つまり、このスリッパを揃えたのは中原本人ということですよ。それまでに何度かトイレに立ったとき、いつもスリッパがキチンと揃っているんで、これはここの旅館の女中さんがなおしているんやろうと思っとったのです。それがそうやなかった…。それが分かった瞬間、愕然となりましたね。
 タイトル戦に限らず、勝負というものは厳しいものでしてね。たいていの棋士は、休憩をとって盤から離れ、頭を冷やすもんですわ。それでもたいがいの人は頭の中からは「将棋」がはなれんわけや。あーでもない、こーでもない、と構想を練ってるんです。まして、トイレのスリッパがどっちの方向を向いていようとかまへんのですわ。普通の棋士なら。それどころか、ついうっかりスリッパを履いたままトイレから出てきてしまうとかね。僕なんぞは、座敷にまで履いてあがろうとして、ハッと気づいたことがあるくらいやからね。ところが中原はそうやなかった。あとから入って来るもんのために気配りまでしてるとは…。その心のゆとりに、思わず圧倒されてしまいました。こいつは近い将来、棋界の第一人者になれる男や、と直感で分かりましたわ。こんな器の大きな男やったら、そうなって欲しいとも思った。そんな思いでスリッパを眺めていると、自分の「将棋」がふと見えてきたんやなあ。将棋というのは不思議なもんでしてね。将棋を知り尽くしたプロ棋士が全く同じ陣形で打ち始め、それでも勝ち負けが決まるわけでしょう。これは、どれだけ先を読めるかという「知」的な部分だけで決着がつくんやなくて、知も情も意もその全てをかけた勝負なんですわ。(内藤国雄)

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