「長江」

 シンガーソングライターのさだまさしさんの1979年発表のシングル曲「関白宣言」は、「女性蔑視」との論議を呼びましたが(今ではこの曲を歌うには何らかのお断りが必要な嫌な時代です)、100万枚を記録する大ヒットとなったので、これまで以上に莫大なお金が入ってきました。会社の資金だけで2億円くらいあったので、長江の流れに沿って通りすぎる街と人々と歴史を追うドキュメンタリー映画「長江」(1981年公開)の制作に足を踏み入れたのです。当初はテレビ用のカメラとテープで撮影を開始しましたが、映像の劣化を防ぐために途中から35㎜映画フィルムでの撮影に変更。興行成績は、ドキュメンタリー映画としては異例の東宝洋画系120館で上映される大ヒット作となりましたが(興行収入5億円)、諸経費がかさんだことから、借金のほうが膨れあがってしまったのです。35㎜フィルムに変更して撮影したこと、長江の源流域への立ち入り交渉が難航したため、撮影スケジュールが大幅に伸びたこともあり、制作費が異常に膨らみ、28歳のさださんは、個人で約28億円もの巨額の借金を背負うことになります。返済額は利子を含めると35億円になりました。

 しかし、さださんが、中国でどうしても撮影を続けたかったのには、中国への憧れ・強い思い入れがあったからです。さださんの祖母は、シベリアに渡り、ウラジオストクで料亭を経営していました。そして、さださんの祖父(島根県出身)は、中国からシベリアを股にかけたスパイだったそうです。官憲に追われて逃げ込んだとき、ずっとかくまっていたのが祖母でした。その後、二人の間に生まれたのがさださんのお父さんです。中国は憧れであると語るさだまさしは、自身の父が生まれた場所、そして祖父・祖母が生き抜いてきた土地ということで思い入れが強かったのでしょう。旧満州で育ち、中国戦線で戦った父・雅人さんの強い思い入れで製作された作品でした。映画「長江」は、さだまさしの人間としての原点をたどる旅でもあったのです。それを知ると、借金をしてまでも制作したかった思いの強さにも納得がいくというものです。

 映画「長江」は、制作・監督はもちろん、音楽・主演もさだまさしが務め、総監修が市川昆。ドキュメンタリー映画なので、ストーリーはありませんが、あらすじは、さだまさしが長江の最初の一滴を見たいという目的で、中国へ旅立つところから始まります。長江の源流をたどりながら、長江沿いの街並みや、人々の様子、周辺の名所を紹介。時には川船で移動しながら、長江の源流を目指していくのです。しかし、安全上の理由から、長江源流における中国政府からの撮影許可がおりません。その後、さださんが向かったのは峨眉山(がびさん)。3000メートル以上の高山である峨眉山を登った先には、目指した長江の源流が見えました。さださんが憧れた、中国・長江源流の最初の一滴。映画「長江」は、中国の広大な自然がありのままに感じられる映像にあふれています。自然に触れるからこそ、感じられること、考えさせられることがたくさん見つかる映画です。はるか800キロ先にそびえ立つ7,000メートル級の山々がはっきりと見えました。雲海に浮かぶ7,000メートル級の山は神々しいほどの美しさ。そんな景色の中で、男たちが並んで小便をしました。「峨眉山から小便すれば、ゴビの砂漠に虹が出る」と言いますが、実際には、上昇気流でしぶきが舞い上がってきてパーッと顔にかかっただけだったそうです〔笑〕。実に30億円の経費をかけた小便でした。

 「最初は2億円あればできるだろうと踏んで、手持ちの2億円で始めたんだけどね、全然足りなかった。親父の夢だったから途中でやめるわけにもいかなかったしね。本人は中国で国賓扱いされ、勲章や感謝状をもらっていい気分だったろうけど、こっちは目の前真っ暗。しんどかったね。でも、30年かかって完済できたのは人生の誇りだね」。映画の製作にあたっては当初、日本のテレビ局と組む予定で、カネの面はOKかなって。ところが、いろんな事情で、さださんの事務所が単独でやることになりました。一瞬、カネのことが頭をよぎったけど、「大丈夫です」と。個人が「日本」を背負ってしまったわけです。28億円のうち、中国側に支払う撮影権料が約8億円。残り約20億円が撮影にかかった経費です。ある日のコンサート終了後の夜遅く。28の後ろにゼロが8つ、赤字でマイナスを示す横棒…「これがお前の〝財産〟(借金)だ」と突きつけられたときは、えっオレ? とびっくり。「当たり前だろう、お前に貸したんだから」と…。どうする?って仲間に相談したときは「無理だ、投げちゃう(自己破産)しかない」という声が多かった。でもねぇ、自己破産は「逃げるようでイヤだな」と思った。破産した後はどうするんだ、という気持ちもありました。自分に恥ずかしくてもう歌えないでしょう。だから「ダメになるまで頑張らせてください」と頭を下げました。

 さだ企画は、今日は1億5,000万、翌月は8,000万というような額の支払い手形を落とさなければいけません。幸いだったことに、債権者が照明とか音響とか日頃の仲間で、「取りあえず、いくら足りないんだ?」と逆にお金を持ってきてくれて、「今日はこの金をあっちへ回して」とか、スタッフと一緒に資金繰りをしてくれたのです。さださんは「お前はお金のことは分かんないから、向こうに行っとけ」と追い払われ、おかげで自分の仕事に専念することができました。危機はいっぱいありました。不渡りを出したことは二度。7億円の支払期限が迫って「もう無理かも」と覚悟したことも。そのとき、業界のいろんな方が手を差し伸べてくださったのです。「まさしをつぶすな」って。感謝と恩しかありません。一度目の不渡り手形を出した後は、社員への給料の遅配が続きました。会社を倒産させないためには、目前に迫った期限までに数億円の工面が必要でした。切羽詰まったさださんは、「日本精工」の会長室に今里さんを訪ねます。さださんを本物の孫のようにかわいがってくださっていた今里広記さん(1908-1985)です。戦後、日経連や経団連、経済同友会を舞台に活躍し、財界のとりまとめ役として「財界官房長官」「財界幹事長」の異名を取った同郷の人です。さださんは借金のことには触れず、中国での撮影エピソードや映画の興行成績などを報告したところ、察した今里さんが先に切り出します。「お金は大丈夫なのかい?」さださんは「はい、頑張っています」とだけ答え、「どうか助けて下さい」という言葉をぐっと飲み込みました。「あのね、本当に切羽詰まって『もうダメだ』と君が思った時、まず僕に言ってくれよ。ダメになってからでは遅いんだよ。力になれるものなら、いかようにもなるからね。いいかい、君が本当にもうダメだと思った時だよ」。この言葉を聞き、さださんは自問自答しました。今は本当にもうダメな時なのか?まだ何かできることはないか――と。さださんは今里さんの存在と激励を後ろ盾に、窮地を乗り越えます。

 借金を返済し、スタッフを食わせるためには懸命に働くしかありませんでした。そこでさださんは毎年、年間100本以上のコンサートをやるようになります。4500回以上という日本記録の裏にはどうしようもない事情があったのです。お客さんが来てくれる以上は、ステージはどんどん来いという感じでこなしていきました。ハードなスケジュールには一切文句はつけなかったと言います。ツアーには自分の持ち歌全曲のスコアを持っていきました。むろん他の歌手にそんな人はいません。演奏曲順は前もって決まっているものの、より良いステージにするために、急に曲を入れ替えたりすることがよくありました。そこまでして責任をもってこなすステージでしたが、負債を解消するまでは「精一杯やってる」と、自分自身に言い聞かせたいという気持ちもあったでしょうし、明日やることが決まっていれば、自分は何とか潰れずにいられる、というような心理もきっと働いていたことでしょう。「やはり会社の資金繰りが苦しかった時期、あの頃が一番大変だった。ちょうど一千回を越したあたりでしょ。本当にお客さんがよく来てくれて、お客さんに救われたという感じですね。あの頃はコンサート以外にも営業で歌ったこともたくさんありましたから、歌った数で言えば二千回じゃきかないですよ」

 35億の借金をきれいに返し終えたのは30年後、58歳のときでした。♥♥♥

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