カーネル・サンダース

 世界的有名企業「ケンタッキー・フライドチキン」の創業者にしてマスコットも兼ねる「カーネルおじさん」の名で親しまれているヒゲ&眼鏡おじさん。「ケンタッキー・フライドチキン」(以下KFC)の創始者であるカーネル・サンダースは、本名をハーランド・デーヴィッド・サンダースといいます。彼は1890年、インディアナ州ヘンリービルに生を受け、6歳のときに父を亡くし、10歳から農場へ働きに出ていた苦労少年でした。彼は成長すると、若い頃から貧しい家計を助けるため、鉄道の車掌を皮きりに、軍隊、消防士、保険外交員、船員、タイヤ売り、ガソリンスタンドなど、実に40を超える職業を次々と経験し、幾度にもわたる挫折を味わっています。

 そんな彼は40歳のとき、ケンタッキー州コービンにてガソリンスタンドの一角を借りて、わずか6席の小さなレストラン「サンダースカフェ」を開きます。店は大いに繁盛しました。目玉商品はフライドチキン。これが今日に至るまでKFCが提供し続けるチキンのオリジナルです。そのレシピは、1939年の時点で既に完成していました。

 「サンダースカフェ」は順調に店舗を拡大していき、サンダース氏はケンタッキー州から称号「カーネル」を贈られ、ケンタッキー州名誉大佐となりました。しかし順風満帆に見えた繁栄も束の間。1950年代に、高速道路が開通したことで人の流れが激変し、客足は激減します。65歳にしてほとんどの財産を失ってしまい、サンダース氏は自分の店を手放さざるを得なくなりました。しかし、それでも彼は諦めようとはしませんでした。自分の作ったフライドチキンは多くの人を幸せにできると、彼は心から信じていたのです。そこで彼は『チキンの製法と独自に編み出したスパイスのブレンド方法を教える代わりに、その売り上げの一部を貰う』という、今日におけるフランチャイズ契約の元祖とも言うべきアイディア商法を考え出します。そして御歳65でありながら、目玉商品であったフライドチキンをワゴンに積んで各地を回り、自慢のフライドチキンの宣伝を始めたのです。訪ねた会社は、驚くなかれ1009軒!フランチャイズ契約を取ろうと必死で営業をしますが、70歳近い営業マンの話など誰もまともに聞いてもらえず、その全てに断られたといいます。しかしそれでも諦めず、わずかな年金などでガソリンを買い、車の中で寝泊まりをして営業を続け、遂に1010件目で契約が成立しました。これが世界に名だたる「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)の始まりです。その後、KFCは今日に至るまで全世界に飛躍的に拡大し大企業に成長し、様々なメニューも増えました。しかしそのフライドチキンの製法は、今でも変わっていません。

 サンダース氏は74歳を期に経営の一線から退きましたが、顔が知れ渡っていた自身を利用した店のプロモーションに余念がなかったといいます。独自の製法が守られているかを確かめるために各店舗を訪問するなど、一線から退きながらも非常に精力的に活動しました。1980年12月16日、急性白血病(併発した肺炎が原因とも言われる)により、逝去。享年90歳。家族のため、人々のために働き続けた苦労少年サンダースの人生は、多くの人の笑顔というかけがえのない実を結び、静かに幕を降ろしました。彼は没後40年以上を経た今でもなお、店の入り口でいつも我々に微笑んでいます。

「人生は自分でつくるもの。遅いということはない」

「人間は働きすぎてだめになるより、休みすぎてサビ付き、だめになる方がずっと多い」

「他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である」

「いくつになったって、自分の人生をより価値あるものにするための努力をするべきだ。何の問題も起こらない人生が、素晴らしい人生なわけがないのだから」

「できることはやれ、やるなら最善を尽くせ」

 このサンダースおじさんから私たちが学べる教訓とは、何事であれ、人間が新しいことにチャレンジする意欲に関する限りは、年齢制限などはないということです。

 ついでながら、お店の前に立っている例の「カーネル像」はどうやら日本独自のものらしく、来日し自身の似姿との対面が実現した際、サンダース氏は絶賛したとか。そもそもこの「カーネル像」、日本進出の際に全く客足が伸びなかったため、「招き猫」をヒントに作られたものです。実際、設置してから売上げが伸びたらしいですよ。❤❤❤

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