列車のトイレ

 日本に鉄道が誕生してからしばらくの間は、列車にはトイレは設置されていませんでした。停車する途中駅で無事に用を済ませることができればいいのですが、列車内で漏らしてしまう人、窓から放尿する人もいたと言われています。そのために、罰金規定を設けて取り締まることになりました。1873年(明治5年)、窓から放尿する行為には、当時で金10円の罰金が科せられました。当時にしたらかなりの高額です(300㎏のお米が買えたそうですから)。1881年(明治14年)には、窓からお尻を出しておならをした人が罰金5円を課されています〔笑〕。悲劇も発生しています。皇室財産を管理する御料局の長官、肥田浜五郎は1889年4月28日、出張で関西に向かう途中で便意を催し、途中の藤枝駅で下車して用を済ませました。ところが、列車はすでに動き出しており、肥田長官は慌てて列車に飛び乗ろうとしましたが、足を踏み外して線路上に転落、不慮の死を遂げています。この事故の犠牲者が政府関係者であっただけに、鉄道省への風当たりは強く、翌月にはトイレ付きの客車がイギリスから輸入されています。しかし財政上の問題もあり、トイレ付き客車が広く普及したのは、大正末期から昭和にかけてを待たねばなりませんでした。

 私がまだ子供の頃は、列車のトイレは「開放式」つまり、垂れ流し式」!でした。つまり和式トイレからそのままポットン、排泄物を線路上に落としながら走っていたのです。もっとも便器から直接線路に排泄物を落下させるのではなく、走行中の風圧で飛散させるという構造でした。当然のことながら、駅に停車中や市街地では、トイレは「使用禁止」です。停車中にトイレを使うと、その場所に糞尿が集中してしまうからです。当時線路には多くの排泄物が落ちていたものです。このことを、大好きな推理作家の故・西村京太郎先生が、インタビューでこんな回想をしておられました。

 そうそう、トイレも感動したんですよ。昔は停車中、使えなかった。水洗じゃなくて、みんな線路にポトンと落っこちていく。だって下を覗き込むと、線路が見えるんだもの(笑)。そういう古い列車、機関車とか客車を見ると、やっぱり感動するんです。   ―西村京太郎スペシャルインタビュー『十津川警部 日本縦断長篇ベスト選集 西伊豆 美しき殺意』(徳間書店、2012年) 

 列車のトイレが不衛生であることはたびたび指摘されていましたが、財政的な理由もあり、一向に改善されることはありませんでした。沿線住民は長い間、排泄物の公害に苦しめられ続けることになりました。実は2002年3月までJR北海道では使われていたんですよ。さすがにこれでは不衛生だということになり、やがて「粉砕式」が導入されます。これは排泄物と処理液を処理機で混合して粉砕し、タンクで殺菌・脱臭してから車外へ捨てるというものでした。衛生面はずいぶん改善されたものの、沿線の人たちが迷惑することに変わりはありません。そこで登場したのが、循環式汚物処理」のトイレです。排泄物は汚水タンクの中に貯蔵されるようになったのです。排泄物

▲国鉄系電車特急「やくも」号のトイレ

は、消毒液と水の混合液によって流され、フィルターを通し汚水タンクの中へと運ばれます。水に限りがあるので、消毒液は循環し、再利用されるという仕組みでした。列車のトイレで青い水が流れるのは、この消毒液の色でした。これによってずいぶん衛生面での改善は図られたものの、臭いを完全に消すことはできませんでした。そこで新たに導入されたのが「真空吸引方式」です。ボタンを押すとシュポッという音とともに、排泄物が一気に消え去ります。あれは、圧縮空気が排泄物を一気に汚水タンクへと吸引してくれているのです。1回の使用で使われる水の量はわずか200ミリリットル程度で、コップ一杯の水よりも少ない量で、排泄物を見事に流し去ってくれるのです。この臭気対策に効果がある「真空吸引方式」を初めて取り入れたのは、JR九州で、水戸岡鋭治(みとおかえいじ)先生がデザインされた787系交流電車でした(その後「リレーつばめ」に運用され、現在は特急「かもめ」「にちりん」「みどり」「きりしま」「リレーかもめ」などで使用されていますね)。臭いが少なく、水の量もわずかで済み、衛生面もクリアしているので、その後全国の在来線に広がりました。

▲787系電車

 さて、それでは汚水タンクに貯まった排泄物はどう処理されるかというと、まず、車両基地で「抜き取り」という作業が行われます。大口径のホースを車両床下のタンク取り付け部に連結して、コックを開きます。そうすると、タンクの中の汚物が自然流下します。それだけではタンク内の汚れがきれいにはならないので、高圧水のホースをジョイントして、水を循環させて中を洗浄します。これで汚物は簡易下水処理場へ行き処理が行われます。そしてコックを閉め、ある程度水がたまったら、高圧水も止め、完了です。あとはトイレの便器から、青色の粉の処理剤を投入して終わりです。パイプを外すとき、残りの汚物がジャーと流れ出て、かかることもあるそうですよ〔笑〕。お客さんが、トイレに何か落としたと申告があった場合どうするのでしょうか?その場合は「生ぬき」です。つまりホースをつながずに、床に垂れ流し、網ですくうのです。これは「くせぇー!」「ぎゃー!」という声が飛び交うほど大変だそうですよ〔笑〕。

 よく利用する新幹線では、おおむね2両につき1箇所の個室トイレ(2個室)があります。男性向けの小用トイレも2両につき1箇所設置されています。大型多機能トイレも1編成に1箇所設置されています。地方の特急列車に比べて実に快適です。今から2年前、2021年5月に新幹線「ひかり」号で、運転中に腹痛を感じた運転士がこらえきれずに熱海―三島間で運転席を離れ、客室のトイレで用を足したのが3分間。その間、運転席に座った車掌は無資格だったことが事後に発覚し、JR東海で大騒ぎになった事件がありました。運転士さんのトイレ問題も深刻なんです。

 最近、面白い本を読みました。清水 洽『列車トイレの世界』(丸善出版、2023年)です。観光列車の需要が高まる中、長距離の移動には欠かせない列車のトイレ。列車のトイレに対しては「汚い」「臭い」「暗い」などネガティブな印象をもっている人が多いのですが、新幹線や観光列車の普及に後押しされ、綺麗なトイレが増えています。現在の綺麗で快適なトイレに至るまでは技術者の地道な努力の積み重ねがあり、それにより日本は世界に先駆けて「垂れ流しトイレ」の全廃を実現しました。しかし、海外の列車に目を向けてみると「垂れ流しトイレ」が依然として多く残っています。この本を読むと、いかに日本が恵まれているかを痛感します。本書では、現在の快適な列車トイレに至るまでの日本の歴史、汚物の処理方法、海外の列車トイレ事情を紹介。列車の快適性を陰で支える「列車トイレ」から、日本そして海外の衛生環境を考える一冊となっていました。勉強になりました。これだけ鉄道本が新たに刊行されていても、トイレに特化したテーマは取り上げられることはありませんでした。鉄道雑誌の新型車両解説でも、説明はキャプション程度にとどまっていて、それ以上の情報は得られません。最近の列車のトイレ事情を読みたいと思っています。現場の方からの列車のトイレ特集を組んでもらいたいと思っているのは私だけでしょうか?★★★

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