現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としては1970年代後半から1980年代中盤にかけてヤクルトスワローズ、西武ライオンズで指揮を執り、それぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗(ひろおかたつろう)さん。 実に70年もの間、プロ野球の世界を内外から見続け、そして戦い続けてきた“球界の生き字引” “ご意見番”の眼力は、92歳になっても一向に衰えることなく、今もなお球界を唯一無二の野球観で批評し続け、多くの野球好きの耳目を引き、メディアで大いに人気を集めています。「どこまでも厳しく、そして誰よりも純粋な指導者」です。 最近、そんな球界最老長のご意見番・広岡達朗さんの著書が、立て続けに三冊も出版されて興味深く読みました。3月には、球界を生きたレジェンドたちの証言から構成された、ノンフィクション作家・松永多佳倫『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社、2024年3月、2,310円)、4月には名将が語る指導者の要諦を詰め込んだ広岡達朗『最後の名将論』(SBクリエイティブ、2024年4月、990円)、そして5月には最後の提言となる、強いチームには「4つの条件」が満たされるという広岡達朗『勝てる監督は何が違うのか』(宝島社、2024年5月、1,320円)の三冊です。
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私はまだ若い頃に広岡さんの著書を読んで以来、おっしゃっておられることは教育の世界にも見事に当てはまることに気づいて、それからずーっと追いかけてきました。「広岡達朗の勝者の方程式」として若い頃にまとめたことがあります(⇒コチラです)。私は広岡さんの著書はほとんど全部読んできました。他の評論家は球界とのつながりを大事にするためか、オブラートに包みながら遠慮がちに解説していますが、失うものは何もない広岡さんは、巨人だろうと何だろうと歯に衣着せぬ発言で一刀両断します。あまりに本当のことをズケズケとおっしゃるものだから、敵も多く、嫌われることの多い最長老です。原辰徳監督、菅野智之投手、中田 翔選手などは見事なくらいにまでこきおろされています。前著・広岡達朗『巨人が勝てない7つの理由』(幻冬舎、2023年)で、あまりにもズバズバと実名を挙げて巨人の問題点を批判しておられましたが、納得の結論でした。広岡さんの結論は勝つためには「正しいことを、正しい方法でやればよい」ということなんですが、これは私の英語の指導にもそのまま当てはまる正論です。
広岡さんがなぜにこれほどまでに偉大なのか?というと理由は三つほどあります。まずセ・パ両リーグで監督を務め、チームを日本一に導いたのは、三原 修、水原 茂、広岡達朗の三人だけです。中でもセ・パでBクラス常連の弱小球団を引き受け、ともに二年半内に優勝させたのは、広岡さんだけなんです。この弱小球団を優勝に導くためのプロセスの一つひとつが実に参考になるのです。二番目に、早稲田大学から1954年に巨人に入団し、一年目に残した打率3割1分4厘は、2020年にDeNAの牧 秀悟に抜かれるまで、66年間も大卒ルーキーの最高打率を誇っていました。球界を代表する名ショートとして華麗なプレーでファンを魅了しましたね。最後に、これが一番すごいことなんですが、監督時代に指導した選手の中から、後の監督経験者を16人も輩出している点です。田淵幸一、東尾修、森繁和、石毛宏典、渡部久信、工藤公康、辻発彦、秋山幸二、伊東勤、田辺徳雄、大久保博元、若松勉、大矢明彦、尾花高夫、田尾安志、マニエルの16人です。これは史上空前のV9を成し遂げた川上哲治や、知将・野村克也、闘将・星野仙一ですらも成し得なかった偉大な功績です。立派な指導者を育成することも、監督の大きな役割なんです。西武の教え子の石毛宏典さんが証言します。
「広岡さん自身が根気よくいろいろと基礎中の基礎を指導してくれたおかげで、8度のベストナイン、10度のゴールデングラブ賞を受賞して40歳まで現役を続けられました。 あの頃基礎を学んでいなかったら、広岡さんの言うように30過ぎで引退していたかもし れません。間違いなく広岡さんのおかげです。結局、広岡さんが弱いヤクルトを、弱い西武を勝たせたじゃないですか。だから僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいないんです。野村さんはヤクルトは勝たせたけど、阪神、楽天では勝てなかった。森さんも西武で勝ったけど、ベイスターズでは勝てなかったですから。 プロ野球チームという技術屋集団において、技術屋をまとめるリーダー(監督)には『技術はこうすれば高くなるんだよ』という指導理論が備わっていることがまず必須。さらに、どんな相手でも納得させるだけの絶対的な理論を持つことが、リーダーの資質とし て最も重要な部分だと思うんですよ。それまで『プロの二軍選手は未熟だから練習しなきゃいけない』『プロの一軍選手は完 成された選手だからマネジメント的なものだけでいい』と言われてきましたけど、広岡さんは一軍だってヘタなやつがいっぱいいると高らかに言っていました。そりゃそうですよ、誰も四割も打ったことないプロ野球界。まだまだ未熟者ばかりです。どうすればスキルアップできるか。広岡さんはヤクルトでも西武でも、選手個人をしっかりスキルアップさせ、二割五分の人間を二割七分、二割七分の人間を三割近く打てるようにしてチーム力を上げていったんですから」 今でこそ、1アウト二塁だったら右方向に打ってツーアウトランナー三塁にする「有効凡打」や「自己犠牲」が当たり前に評価されます。しかし、1980年代に入るまでのプロ野球には「有効凡打」、「自己犠牲」という概念など浸透していませんでした。そんな時代に、真理に基づき、チーム組織で戦うための選手を強化・コントロールしていく野球を実践したのは、広岡さんが初めてでした。「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の 野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね」 石毛さんはそう断言します。
逆の例を挙げます。「なんかアホらしい」。江夏はそう思いました。広岡さんが薦める玄米を食べることそのものではなく、選手がすべて監督の言いなりになっていることに辟易したのでした。シーズンに入り、監督の広岡さんが痛風を患っていることを耳にした江夏は、5月の遠征時の食事中に、広岡の席までつかつかと近寄ってこう言った。 「玄米を食べているのに、監督はなんで痛風になるの?」 その瞬間、周りは凍りつきます。冷静沈着な広岡の顔が強張り、何も言わずに席に立ってしまいました。江夏に決して悪気はなく、あくまでも本音を言ったまでです。 「何をそんなにビビっとるんや。軍隊じゃあるまいし、俺らは操り人形とちゃうぞ」キャンプ時から「ああせえこうせえ」と一から十まで指図され、選手はそれを素直に聞き入れている。これではまるで広岡教の信者じゃないか。広岡に心酔していればまだわかるが、選手はどこかビクビクして従っているように見える。高校球児じゃあるまいし、プロのアスリートには到底見えない。そこで江夏は「いっちょかましたろ」と思ったのでした。この「痛風発言」から、江夏の登板数は減っていきました。広岡さんは、「江夏の登板と痛風発言はまったく関係ない。ただいろんな人から痛風については言われたよ。美食で痛風になるのはウソ。人によって原因は違う。医者からは特効薬を3時間おきに飲みなさいと言われた。中西太から専門の医者を紹介され、『これを3時間おきに飲んでいます』と言ったら『広岡さん、私に会ってよかったよ。死ぬとこだったから』と言われた。3時間おきに服用していた薬が、非常に強い薬だったわけ」かつて痛風は贅沢病と呼ばれ、美味しいものをたらふく食べている贅沢者が発症する病気と言われていました。現代医学の進歩により、食べすぎ、酒量といった生活習慣の乱れから、激しい運動やストレスも原因とされ、人によって原因となる要素はさまざまでです。とにかく、監督時代に痛風になったことは、マスコミならず選手からも格好の攻撃材料となりました。毎朝起きたら真水を浴び、規則正しい生活を徹底して自分を律してきた広岡さんが、生活習慣の乱れから痛風を発症したとは考えにくいのです。おそらく極度のストレスからの発症に違いありません。ただ、当時の間違った認識により周りからは好奇な目で見られるようになり、食事管理するうえでの説得力が欠けてしまったのは否めません。「広岡達朗の生き様」は誰の人生にも当てはまります。マスコミから「管理野球」と揶揄された広岡達朗の野球スタイルは、決して型にハメたものではありません。自主性を重んじながら目の前のことを一生懸命やらせた結果が優勝につながっただけに過ぎないのです。「やるべきことをやる」。誰の人生にも当てはまることでもあり、広岡達朗の生き様はまさに万人に通じるものがあります。上に挙げた三冊を熟読して、広岡野球をもう一度再評価する必要を強く感じた八幡でした。♥♥♥