稲尾和久投手

 プロ野球投手の鉄人・稲尾和久(いなおかずひさ、1937―2007年)さんの苦労話を本で読みました。昭和時代後期の豪腕投手で、1956年に西鉄に入団すると、21勝で新人王、1957年から3年連続で30勝以上。1961年はなんと42勝も!今では考えられない働きぶりです。1958年には、巨人が相手の日本シリーズで3連敗のあと、4連投して逆転優勝に尽くし、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。実働14年、通算276勝137敗。1993年に野球殿堂入りしました。

 大分県内の無名の高校で、甲子園にも行けなかった投手の実家に、プロのスカウト(西鉄)がやって来て、契約金50万円を現金で積んでくれて、それを見たお母さんが目を白黒させてひっくり返ってしまった、というエピソードが書いてありました。稲尾投手は喜んで球団に入り、練習生として頑張りました。一緒に入った甲子園に出場したエース候補のピッチャーはブルペンで練習するのですが、稲尾さんはバッティングピッチャー(打撃投手)として来る日も来る日も300球~400球ほど投げ込みます。当時の西鉄には中西太大下弘豊田泰光といったものすごい強打者がいて、それがバットをぶんぶん振り回してきます。まだ防護ネットのない時代に、打球は自分の体のすぐ横をかすめ、うなりを上げて飛んでいきます。まともに当たったら死ぬかも知れないと思うぐらいの恐怖心を抱きながら放っていました。ストライクばかりでは打者によっては「疲れるではないか。3球に1球は外せ!」と言われ、ボール球も球1個分を外し、内角のあとは外角へと試していきました。いずれ劣らぬつわもの、くせ者相手の100球はブルペンでの200球の値打ちがありました。次第に打撃練習のマウンドが「宝の山」へと変わっていきます。この実践で緻密な制球力が身についたのです。後年「精密機械」と呼ばれた絶妙なコントロールは、こうやって磨かれていったのでした。練習から帰ると、宿舎の二階までの階段が上がれないほどへとへとになっていたそうです。

 そのうちに、一緒に入った高卒のエース候補に「おまえ、契約金いくらもらったんだ?」と聞いたら、一人がいとも簡単に「500万」、もう一人は「800万」と答えました。稲尾さんのお母さんは50万円で目を白黒させてひっくり返ったのに……。「月給は?」と聞いたら「月給は50万だ」と。普通ならそこで、世の中を恨んだり、そねんだり、妬んだりするところなのですが、稲尾さんは違いました。それはしようがないな、あいつらは有名な、甲子園に出場したピッチャーであって、自分は無名だったんだからと、黙々とバッティングピッチャーを続けていました。そのキャンプの打撃練習で、稲尾の絶妙のコントロールに目をつけた主軸打者の豊田中西が、「稲尾起用」三原脩監督に進言したことによって、開幕早々に一軍でチャンスをもらい、一気に才能を花開かせたのでした。

 そうやって稲尾さんは自らどんどん苦労を買って、だまされることを承知の上で、昨日も先発で投げ、今日もまた途中で投げ、明日も投げと、一言の不満も言わずに淡々と投げ続け、西鉄の日本一に大いに貢献しました。酷使されても喜んで投げていく、一心不乱に野球に打ち込むことによって素晴らしい人間性ができあがっていきました。本人は投げるのが大好き。頼られると意気に感じるタイプだけに、酷使された感覚は全くありませんでした。しかし、その「労働量」はすさまじいというほかはありません。投手の役割分担がまだ確立していない時代でしたから、「先発、そして救援に」と酷使されて、投手寿命は短命に終わりました。例えば記録を、稲尾さんよりプロ入りが26年遅い工藤公康投手(西武など)と比べると、その差は歴然としています。稲尾は実働14年、756試合に登板して、完投179、投球回3599、276勝137敗、防御率1.98。工藤は実働29年、635試合に登板して、完投116、投球回3336回2/3、224勝142敗3セーブ、防御率3.45。ご本人は後年「私の投手人生は8年で終わった」と述懐しました。恨みがましい響きは一切ありませんでした。新人時代から4年間、稲尾を“酷使”した三原脩監督「選手には『旬』がある。その時期を逃さず稼がせてやるのも監督の使命」と語りました。同世代の藤田元司(巨人)、秋山登(大洋)、杉浦忠(南海)、権藤博(中日)らもこの時代の流れに沿い、投手としては短命でした。もし仮に稲尾が先発専任で、中5日のローテーションで投げていたらどんな成績を残し、どれほどの生涯年俸を稼いだことでしょうか?酷使されても喜んで投げていく、そういう苦労をして精進した稲尾さんは、「ひたすら働くことの価値」を教えてくれます。

 あの大打者・野村克也さんは南海ホークスの4番として稲尾さんとはライバル関係にありました。どうしても稲尾さんの変化球(カーブ)を打てなかった野村さんですが、攻略法を探すために、当時はまだ珍しかった「16ミリフィルム」で録画して徹底して研究したそうです。お互いのクセや作戦を研究し合うなど「一流が一流を育てる」を絵に描いたような関係で、タイプ的にも「頭脳派で野球観も似ている」と尊敬し合う関係だったそうです。人を滅多にほめないあの野村克也さんが「稲尾に育ててもらった」と発言しているのは印象的でした。また、三度の三冠王に輝いた落合博満さんも「野球を教えてくれた数少ない人」と振り返りつつも、心残りとして“自分自身の評価”を聞けなかった点を挙げていました。また、稲尾和久さんがロッテの監督を解任された際には、落合さんも「監督が居ないのなら辞める」と発言して、実際にロッテから中日ドラゴンズへトレードされています。平成の名指揮官二人を育てた鉄腕・稲尾投手は偉大な野球人だったと断言して良いでしょうね。♥♥♥

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