「平和祈念像」に込められた思い

 被爆地・長崎から戦争犠牲者の冥福を祈る象徴的な存在となっている「平和祈念像」。今年のノーベル平和賞受賞に「日本被団協」が選ばれ、改めて大きくクローズアップされた被爆地・長崎のシンボル「平和祈念像」です。長崎市民の平和への願いを象徴する像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さ30トン、青銅製の巨大な「平和祈念像」。制作者の長崎県・南有馬村出身の彫刻家北村西望(きたむらせいぼう、1884~1987年)は、この像を神の愛と仏の慈悲を象徴として、垂直に高く掲げ天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、横にした足は“原爆投下直後の長崎市の静けさ”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という追悼の想いを込めています。原爆が投下されてから80年。あの惨禍を二度と繰り返してはいけないと、雄大な姿のその像はこれからも被爆地・長崎で平和を祈り続けます。でもなぜこれほどまでに巨大な裸体の男性像になったのでしょうか?平和のイメージといえば母子像や鳩の姿です。この像はそれとあまりにもかけ離れた姿だったために多くの批判にさらされてきました。「あれが表象するものは、断じて平和ではない。むしろ戦争そのものでありファシズムである」(小説家 堀田善衛「あまりに醜くてカメラマンもとても撮る気にならない」(映画監督 黒澤明) と手厳しい批判にさらされました。抗議やアトリエの窓が割られることも度々であったといいます。

 像の完成から70年近くが経つ中、制作が構想され始めた頃の作者の強い思いがうかがえる新たな資料が発見されました。そこには、時代を超えて誰もが平和を祈ることができる像を目指した作者の思いがありました。

 見つかったのは、像の制作が構想され始めたころの写真などをまとめた「スクラップブック」とメモが綴られた「雑記帳」です。スクラップブックには、像の原型を撮影した写真などが貼られ、雑記帳には、制作への考えが走り書きされたメモなどが残されていました。資料を残したのは、この平和祈念像を制作した長崎県出身の彫刻家、北村西望です。実在のモデルをもとにした筋骨たくましい男性像を得意とし、戦前から日本美術界の先頭を走ってきました。戦後、長崎市から「平和祈念像」の制作の依頼を受け、東京・北区に当時構えていたアトリエで構想を練り始めました。そして、構想から5年後の昭和30年に「平和祈念像」は完成しました。北村さんが70歳の時の作品です。

 実は、「平和祈念像」の変遷をたどるスクラップブックはこれまで複数見つかっていましたが、完成した像に近い段階になってからの資料しか存在しませんでした。今回見つかった資料からは、当初は異なる形の像が構想されていたことが新たに分かったのです。スクラップブックに貼られたデッサンの写真には、しこを踏むような姿の像が写っていて、当初は現在の座った像とは異なる形が構想されていたことがわかります。また、雑記帳には「人間的なものから非人間的なものへそしてさらに超人間的なものへといった記述が残され、人の力で成し得なかった平和を人間を超えた存在によって実現しようとした作者の思いをうかがうことができます。

 その中に残されていた「昭和25年11月25日」という記述の脇にある「平和祈念像」のデッサンを撮影した1枚の写真。そこに映る像は、大きく足を広げてしこを踏んだようなポーズをしています。異なる大きさの像を比較したスケッチもありました。方眼紙に並べて描かれたのは、30尺(約9メートル)と40尺(約12メートル)の大きさの像。足元には、像の縮尺にあわせた人間を立たせ、どのくらいの大きさの像をつくるのが最善なのかを探っていたことが分かります。このほかにも、左右を反転させた像や、腕の形を微調整していた跡も残されていました。こうした試行錯誤から北村さんが新たな平和のイメージを求めて模索を続けていたことがうかがえます。

 さらに、雑記帳には北村さんが目指した表現をうかがわせる記述が残されていました。「人間的なものから非人間的なものへ そしてさらに超人間的なものへ」“超人間的”という言葉の脇には、“エクストラヒューマン”という文字も書かれていました。また、北村さんは平和について「人類が希望し尚且人力を以て未だ成らず」と書き記していました。人の力では成し得なかった平和を「人間を超えた存在」によって実現しようとしたのです。人間の力では平和を成し遂げられなかったからこそ、俗世間の騎馬像や軍人像など偉い人たちの像ではなく、神様や仏様のような俗世間には実際にはいない存在を表す必要があったのでしょう。

 さらに、北村さんはどのような立場の人でも平和を祈ることができる像を作ることを意識していました。「極右、極左、保守、中庸派なるものが生ずる原因に就て深く考慮すべきだ」北村さんは戦時中、武器の製造に必要な金属を集めるため、鉄や銅などでできた像を壊されたり、戦後もGHQの意向で軍人像が撤去されたりする経験をしていました。特定の思想やイデオロギーに偏らない表現で平和祈念像を制作することが、時代を超えて受け入れてもらうために必要だと考えたのです。今も長崎から恒久の平和を訴え続けています。♥♥♥

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