工藤公康の潔さ

 選⼿として29年、解説者として3年、そして監督として7年の野球人生。ソフトバンクの監督を務めておられた工藤公康(くどうきみやす)さんです。2011年に48歳で現役引退を表明するまで、29年に及ぶ投手生活の中で最優秀選手(MVP)2回、最優秀防御率4回、最高勝率4回など数多くのタイトルに輝き、通算224勝、14度のリーグ優勝と11度の日本一に貢献しました。私の大好きな巨人でも大活躍しました。私は旧・広島球場工藤投手の投げる生の姿を見ています。「優勝請負人」との異名もとった工藤さんに感心したのはその見事な引き際でした。ホークスの監督就任が決まり、オーナーである孫正義さんにあいさつに行った際に、さんから最初に言われたことは、「10連覇できる強いチームを作ってほしい」ということでした。プロ野球における連覇記録は1965年から1973年まで日本一に輝いた読売巨人軍の9連覇が最高で、その伝説的な記録はいまだに破られていません。工藤さんは7年間の監督生活の中で5度も日本一に輝いています。日本シリーズを4連覇した翌年の2021年は4位に終わり、力及ばずで5連覇ができませんでした。「ならば自分が責任をとる以外の方法はない」。慰留もされたようですが、すぱっと辞められました。辞めるという決断は監督を引き受けた時からの工藤さんなりの覚悟でした。これだけの好成績を残しながら、約束を果たせず勝てなかったからすっぱり責任をとって辞めるとは、なんて潔いんだと感じたものです(思いは著書の中に書き込まれています)。その指導哲学とはいかなるものなのか、彼の著書を読んでみようと思い立ちました。

 現役時代は「前後裁断」という言葉を座右の銘にしておられました。これは曹洞宗の開祖である道元禅師の『正法眼蔵』や、江戸時代に活躍した臨済宗の名僧・沢庵禅師の言葉にも引用され、 「過去も未来も裁ち切り、今に集中すること」を説いたもので、「前後際断」とも書きます。過去をくよくよ引きずったり、未来を憂えて取り越し苦労するのでもなく、いまこの時を生きよという意味です。工藤さんの現役時代は、まさに一年一年が勝負だと思っておられ、過去の自分にとらわれず、目の前の一試合一試合に集中しようと戒めておられました。とかく人間は過去の実績にこだわったり、過去の栄光にすがってしまったりするものです。だが、持つべき「プライド」と、捨てなければならない「プライド」があると言います。捨て去らなければいけない「プライド」は、前を向いて進んでいこうという人間にとって邪魔なものなのです。プロ野球もビジネス社会も、自分自身の過去の実績や誇りはともかく、人に評価されてこそ認められる世界なのです。

 工藤さんも入団当初はやんちゃ坊主で、目を離すと怠けてしまいそうなので、2軍ではなく1軍において監視をしていたと、広岡達朗監督が言っておられました。西武ライオンズの3年目、アメリカの1A(マイナーリーグ)に広岡監督に野球留学を命ぜられます。もう40年前の話になります。当時の西武ライオンズは毎年、1Aのカリフォルニアーリーグ所属の「サンノゼ・ビーズ」というチームに若い選手を何人か武者修行に出していました。3年目でワンポイントのリリーフ要員だった工藤さんも、1984年のシーズン中に広岡監督から「成長の跡がない、お前も修行してこい」と突然言われ、夏の1ヵ月半ほどカリフォルニアに行ってリーグ戦に登板していました。そこで大きな衝撃を受けます。1Aの選手たちは少額の「ミールマネー(1日の食事代)」しかもらえない中で、チームメート何人かと安アパートに寝泊まりしながら、ひたすら上を目指して野球をしていました。トライアウトを受けて入ってきた選手がほとんどで、成績が悪いとすぐクビになります。二軍でも1年契約で生活が守られている日本のプロ野球とはだいぶ違う環境でした。クビになってアパートを出て行く選手も毎週のようにいました。荷物をまとめている選手に「これからどうするの?」と聞くと、「またトライアウトを受けて大リーグを目指す」と答えました。聞いた3人が、3人とも同じ答えでした。諦めるどころか、誰もが自分の可能性を疑っていませんでした。そうした1Aの選手たちの「野球への情熱」を目の当たりにしたおかげで、他人とばかり比較していたそれまでの自分が恥ずかしくなったと同時に、「もっと自分の可能性を信じるんだ」と強く思うようになりました。そこから、もっと球速を上げなきゃダメだと考え、帰国後、当時の投手には珍しかったウェートトレーニングに自ら取り組み始め、3ヶ月で球速が10キロも上がったのです。

 工藤さんが西武ライオンズに入ったときの監督は広岡達朗監督でした。投内連携だけで2時間といった猛練習漬けの毎日でしたが、そういう練習量がプロ野球チームでは当たり前だと思って育ちました。監督やコーチから「やれ!」と言われたら、みんな「はい!」と言って黙々とやる時代だったし、そのやり方で入団4年にして、3回のリーグ優勝と2回の日本一を経験していますから、何の疑問も持ちませんでした。広岡監督時代の4年間に技術的に伸びたかどうかは分かりませんが、その猛練習のおかげで「どんなに練習しても壊れない強い体」を手に入れたことは確かだ、と回想しておられます。猛練習が当たり前というマインドと、強い体という土台があるからこそ、実働29年間も現役を続けられた、だから広岡さんには非常に感謝している、とおしゃっておられます。当時は選手からいくら煙たがられていても、後になって改めて感謝されるというのが理想の指導者でしょう。その証拠に、広岡さんに指導された選手たちがどれほどたくさん監督となっているかを思い起こして下さい。プロ野球ファンの中には、広岡さんに対して「冷酷な絶対権力者」というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、4年間一緒に野球をした工藤さんに言わせると、何事も理論立てて、きちんと選手に話をする監督でした。広岡さんは、野村さんのID野球よりも早く「データ野球」を行った監督でもあり、頻繁に選手たちを集めてミーティングもしました。そういうときに、よく広岡さんは「野球必勝法70か条・野球必敗法70か条」という小冊子を使って「どうしたら試合に勝てるのか?」という話を事細かく説明していました。後年、小冊子「必勝法・必敗法」は読売ジャイアンツのV9時代の監督、川上哲治さんのもとでコーチを務めた牧野茂さんがロサンゼルズドジャーズの戦術を取り入れて作ったものでした。

 工藤さんは監督時代、甲斐拓也捕手と交換日記をしていたそうです!捕手が野球チームの要、最も大事なポジションだからでした。監督と選手の交換日記など聞いたことがありません。しかも甲斐捕手は育成出身の苦労人です。捕ってから投げるスピード、肩の強さ、ブロッキングの優秀さを買った工藤監督は、「扇の要に育てよう」と英才教育を施していたのでした。

 「努力と根性」を大切にしてきました。工藤さんは、野球選手としては身長もあまり高くないし、足も速くなく、おまけに肩も特別にいいというわけではありませんでした。ただし、負けず嫌いだったので、他人より何倍も練習することを自分に課してきました。「ここまでやらなければいけないのか?」と感じることでも、欠けていることが一つもないように練習を重ねてきました。「自分に負けたくない」という想いをずっと貫いてきました。「努力と根性」という言葉に集約されています。若い選手たちには「一生懸命ではまだ足りない」「必死にやれ」(=必ず死ぬくらい)という覚悟を説き、潜在能力を目覚めさせようと努めました。「私も監督をやっている7年間、練習は厳しかったです。なぜそこまで練習するのか。選手の未来を創るためです

 監督は、選手やコーチとフロントの間に立って、チームが機能するよう、常に準備する人間です。上層部の要望を聞きながら、リーダーとして現場を束ねる立場は大変ですが、それで結果を出す喜びは何物にも代えがたい。それがプロ野球チームの監督という中間管理職を経験した工藤さんの率直な感想です。徳光和夫さんのテレビ番組「プロ野球レジェン堂」にも出演され、野球にかける熱い思いを吐露しておられました。♥♥♥

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