「夏長崎から2025」

 コンサートの間、5分でいいから、あなたの大切な人の笑顔を思い出して欲しい。そして、その笑顔を守るために自分に何ができるかを考えませんか。――「夏 長崎~ さだまさし」で、さださんが伝え続けてきた言葉

 シンガー・ソングライターのさだまさしさん(73歳)から、8月6日(水)に長崎市佐山公園野外ステージで開催される無料コンサート「夏 長崎から2025」(午後5時~)のツアーの案内が届きました。「2025年。広島・長崎は被爆80年を迎えます。僕は再び長崎で歌う決心をしました」と。

 2025年、広島・長崎は被爆80周年を迎えます。広島原爆の日に、もう一つの被爆地・長崎から、平和と生命の大切さを歌で届けるコンサートを19年ぶりに復活させます。戦後80年の節目で「体力的にもこれが最後」と決意しました。新しく発売になった50枚目のオリジナルアルバム「生命の樹~Tree of Life~」でも平和の尊さを歌いあげています。

 さださんが、このコンセプトで無料コンサートを初めて開催したのは昭和62(1987)年8月6日のことでした。当時35歳だったさださんは、長崎市市営松山ラグビー・サッカー場で野外コンサートを開きました。タイトルは「夏 長崎から さだまさし」。入場料は無料。「広島原爆の日に、長崎から広島に向かって歌う。それだけで伝わる人には伝わる」声高に「平和」を叫ぶことなく、集まった人々の心の中にある平和への想いを再確認する場にして欲しい、というさださんの思いです。彼は意識して「平和コンサート」という表現を避けて、「夏 長崎から」という名前にこだわりました。ステージ上からこう呼びかけます。「このコンサートが終わるまでの間に、ほんの僅かな時間でよいから、あなたの一番大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そうしてその笑顔を護るために自分に何ができるだろうか、ということを考えて欲しい。実はそれが平和へのあなた自身の第一歩なのです。」 それを入場料無料で始めたのです(当時彼は莫大な借金の返済に苦しんでいました)。それは、広島原爆忌の晩に長崎で歌うという「平和を願う場所」は誰でも来ることのできる場所であるべきだ、という彼の切なる思いです。「500円でも1,000円でも料金が発生すると、子供たちは家で留守番になるでしょうが、無料なら家族連れで夕涼みがてら出掛けようという気になる。家族そろって音楽を聴く。これこそがまさに平和の姿だと思います」と無料開催の意義を語りました。毎年、この言葉だけを観客に伝えてきました。そこに政治的な意図はありません。ただ歌を届けよう。これに共感し、第1回に村下孝蔵、来生たかお、翌年には松山千春が出演。第3回から元号は平成に替わり、谷村新司、都はるみ、小田和正、泉谷しげる、加山雄三ら、毎年大物アーティストらが続々出演してきました。さださんいわく「フェスの元祖」長崎の「夏の風物詩」として定着しましたが、このイベントはたくさんの人に支えられて20年も続きました。私も毎年夏訪れています。

 ところが、一部の心ない人たちの間では「売名行為」「ただとは何か別の意図があるのではないか?」「長崎県知事になるための事前運動だろう」「いや長崎市長を狙っているらしいぞ」と心ない言葉が飛び交いました。当時、舞台制作費、交通費、宿泊費、スタッフ費用に1回に3,000万円ほどかかりました。映画「長江」製作の借金返済で苦しんでいた当時のさださん(28歳で金利を入れて35億円!)にとって、この金額は決してたやすいものではありませんでした。借金を増やしてまで血の出る思いで、それでも始めたのは、どうしても伝えずにはいられないさださんなりの平和への熱い思い・信念があったからだと思います。以降何と2006年まで、20年間も続きました。いつの間にか「長崎の夏の風物詩」と呼ばれるようになり、毎年稲佐山公園野外ステージに2万人前後が集まりました。回を重ねる毎に誹謗中傷も消え、徐々に理解ある協賛企業も現れ始め(パナソニックなど)大規模になっていきます。それでも毎年費用1億円の半分近くはさださんの持ち出しでした。

 「夏 長崎から」が10回を超え、「夏の風物詩」として定着した頃、第1回目からボランティアスタッフとして手伝っていた長崎県庁職員の男性が、コンサート会場の稲佐山公園で偶然ある母子の会話を聞きました。幼い子が母に聞きます。「お母さん、なしてこげんばいっぱい人がおると?」母は、「今日はね、平和を考える日やけんよ」と答えますが、子どもには「平和」の意味がよく分かりません。お母さんはその場にしゃがみこみ、子どもに向き合ってこう付け加えます。「こんなにたくさんの人が集まって、良い音楽を聞くことが平和なんだよ」さださんはその夜、打ち上げの席上でスタッフからこの話を聞きました。「まっさん、伝わっとるばい」スタッフは涙を流しながら喜んだといいます。さださんも「頑張ってきて本当に良かった」と実感したそうです。彼の思いはちゃんと伝わる人には伝わっていました。

 ただ、初めから8月6日を想定していたわけではありませんでした。さださんは当初、8月9日に長崎で歌えないかと考えていたのです。8月9日は、長崎に原爆の落ちた日です。1945年8月9日午前11時2分、米軍が投下した原爆が長崎の上空500メートルで炸裂。熱戦と爆風で市街地は一瞬にして焦土と化しました。その年だけで約74,000人がお亡くなりになっています。毎年長崎ではこの日は街中が「祈り」に包まれます。そんな中で歌うことで「平和」について考える最も適した日だと、さださんは考えていたのです。

 1987年春、コンサートの合間に故郷・長崎に帰郷したさださんと弟の繁理(しげり)さんは、父・雅人(まさと)さんの友人だった地元有力者・衆議院議員西岡武夫(1936~2011)さんと喫茶店で待ち合わせます。「8月9日、平和を考える野外コンサートを故郷・長崎でやりたい―」さださんは西岡さんに構想を語り、協力を依頼します。西岡さんは趣旨に賛同し、できる限りの協力を約束してくれましたが、8月9日の開催にだけは猛反対しました。この日は、平和記念式典や集会、関連行事に出席するために世界各地から多くの関係者が集まる。宿泊施設はいっぱいの上、交通規制や警備を担当する警察の許可を得るのは簡単ではない。「祈りの日」の野外ライブは市民から迷惑がられる可能性もある。さらにはさださんの取り組みが政治利用されたり、集まった右翼や左翼のイデオロギーを持った人間から妨害されたりすることも予想されるし、必ず何か言ってくるぞ。西岡さんはそう語り、代わりに8月6日に開催することを提案したと言います。「広島原爆の日に、長崎から広島に向かって歌えばいい。さだ君、それで君の思いは伝わるよ。それに右の人も左の人もみんな広島に行っているから、何も気にせず、ただ歌えばいい」「夏 長崎から」のコンセプトは、さださんと西岡さんのそんな対話から生まれたものでした。

 この「夏の風物詩」は20年間続きました。しかしさださんは、「切迫感が薄まった」として、「2006 夏 長崎から さだまさしファイナル」をもって20年の歴史にピリオドを打ったのです。さださんの表情には無力感がにじんでいました。「僕のメッセージが伝わっているのか、いないのか?それを確かめるために現場を一度離れてみようと思う。「夏 長崎から」を20回で辞める決心をした」9/11のテロ以降、世界に広がった混乱はおよそ終息する気配がなく、自衛隊もイラクに派遣されました。「僕もお客さんも一呼吸置き、原点を見つめ直す時期だと思う。そのために一度、現場を離れることにした」「少なくとも達成感はない。以前は、主催者であると僕がいなくなっても続くコンサートになってくれれば、と思っていたが、その願いもかなわなかった。無力感のほか、悔しさもある」さださんは、自問します。

●最も借金していた頃に始めた思いはあれから20年を経て変化していないか?風化していないか?

●心の熱は下がっていないか?これが本当に必要なのか?

●お客さんはどうなのか?これが本当に必要なのか?

●20年間訴えてきた平和への思いは伝わっているのか?あるいは無駄だったのか?

●子どもでも成人すれば(20年)親の手を離れてもいいのではないか?

●自分が永遠に続けられるものでもないだろう?

 これらを自分でもう一度客観的に見つめ直すために、一度現場を離れてみようという決意でした。長崎県は感謝状をさださんに贈ったり、稲佐山の野外コンサート会場を大規模ライブができるように改装したりの協力はしていましたが、コンサート自体は全部さださん任せでした。長崎市民にとって「夏の風物詩」と言われるまでになった特別のイベントなのですから、行政ももっと協力してあげてもよかったのではないか。私はそんなことを思いながら、灼熱の太陽の下、長崎を後にしました。あの時のさださんは確かに苛立っていました。「これまで一つのことを訴えてきた。『コンサートが終わるまでの間に、あなたの大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そしてその笑顔を守るために、自分に何ができるのかを考えて欲しい』と。でも、2004年自衛隊がイラクに派遣された。大した議論もデモも暴動もなく、自衛隊はイラクに出て行った。強烈な無力感、喪失感にさいなまれた。だから、最後に言い足した。『大切な人の笑顔を守るためになにができるか分かったら、自ら行動してほしい』と。もう少し早く言えば良かったと思っている」

 長崎からの祈りや平和のメッセージは多くの人に届き、次の世代に必ずや生きるものと私は信じています。21年目には、今度は長崎に原爆の落ちた日に、広島から(広島市民球場)平和への思いを歌い上げています。「長崎っ子の意地で始めたコンサートだけど、一度も「長崎原爆の日」に歌っていない。8月9日に歌って初めて僕の「行(ぎょう)」は終わると思っている」と。そして「行」を終えるにあたり、今度は長崎に原爆の落ちた8月9日に、広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるとして、2007年8月9日、旧広島市民球場に、約3万2000人が詰めかけたのでした。「20年の思いを収めるためにも広島でやりたかった。長崎の原爆の日に広島で歌って長崎と広島をつなげたい」 「ちょっとだけでいいから、あなたの大切な人の笑顔を思い出してください」 「その大切な人の笑顔を守るために何ができるか、何をすべきかを一人一人が考えてほしい。それが平和への一歩」 「反戦のためにすべきこと。思うだけでなく行動を起こそう」 「僕は長崎をあきらめない。僕は平和をあきらめない」と訴えかけました。そして、超満員の会場から鳴り止まないアンコールに応えて、最後にさださんが歌ったのが、「遙かなるクリスマス」でした。21年間の平和祈念コンサートを締めくくるには、まさにふさわしい反戦の思いのこもった熱唱でした。

 「今年は戦後80年。この節目に、もう一度立ち止まって広島の空に向けて歌おうと思った。戦争反対や核兵器、原発など(政治的なことは)一切触れない」伝説のコンサートを、昭和100年、戦後80年の節目となる今夏、令和7年8月6日に復活させます。そして、さださんにとっては最後の「夏 長崎から」になります。「僕としては今後、誰かが受け継いでほしいなと思っています」と語り、今回でラストにする考えです。果たして受け継いでくれる人は現れるのでしょうか?♥♥♥

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