長嶋監督逝く

 「ミスタープロ野球」と呼ばれ、国民的な人気を誇ったプロ野球・巨人の名選手で、巨人監督やアテネ・オリンピック日本代表監督を務めた巨人軍終身名誉監督長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが6月3日、午前6時39分、肺炎のため89歳でお亡くなりになりました。巨人ファンのみならず、誰からも愛されるひまわりのような存在でした。午前6時過ぎ、脈拍と血圧の数値が0になりましたが、よく見るとモニターの波形はピッピッと山なりに続いていました。看護師は「監督が心臓を動かそうとしている振動なんだと思います。私、こんなの見たことありません」と、主治医と一緒に驚いていたといいます。意識がなくなっても、生きることを諦めずに懸命に闘い続けました。最後の最後まで勝負師の姿でした。根っからの巨人ファンの私は、今日は長嶋さんを追悼しようと思います。

▲東京ドームの長嶋茂雄レリーフ

 現役時代に巨人で長嶋さんと三遊間を組んでいた広岡達朗(93歳)さんは、「とにかくいいやつで、どこかに傷がつくような人間ではなかった」と偲びました。長嶋さんは、新人時代から「素晴らしい才能だった」といいます。ある時、長嶋さんは調子が悪かったのか「今日は動けない」と言ってきた。広岡さんは「普通の人は動けない理由をあれこれ言ってくるものだけれど、あいつは余計なことは言わなかった」と振り返ります。長嶋さんが監督を務めていた頃、ポケットの中にメモが入っていたことがありました。それについて聞くと、コーチらから提示されたオーダーが入っていて、その通りに戦う予定だと伝えられたといいます「何でも正直でね。本当に純粋な男だったね」と懐かしみました。「長嶋の人間性を一言で言えば、正直で野球の能力にたけた『野球バカ』。一緒にプレーしたのは4年間でしたが、私にとっても勉強させてもらった。来た球は直角で捕るし、球際にめっぽう強かった。私の守備範囲の球まで捕るので「かっさらう」という人もいたけど、動ける選手が捕ればいい」と故人を偲びました。

 私の大好きなシンガー・ソングライターのさだまさし(73歳)さんは一時まで熱狂的なジャイアンツファンでした。長嶋監督が電撃解任された時、巨人ファンを辞めたほどの長嶋ファンでした(以降はヤクルトスワローズファンです)。「太陽没す 長嶋さんは太陽でした。野球愛の根源でした。いつも優しく明るく照らしてくれました。誰へも分けへだて無く。野球を愛し野球に愛された人です。永遠に輝き続けます」と長嶋さんへの思いを語りました。借金で苦しかった時期に対談させていただいたり、球場でも励ましてくださり、ゴルフも教えてくださり、コンサートにも薔薇の花束と共にお出掛けくださいました。「何より自分のプレーは絶対に手を抜かないこと、結果はともかく一所懸命やることを教わりました。子供の頃からずっと勇気をいただきました」と続け「長嶋さん本当にありがとうございました。本当にありがとうございました。合掌 さだまさし」と結んでおられます。

 長嶋さんの訃報に際し、桑田真澄2軍監督(57歳)は、選手と監督の関係で日本一を目指して戦った9年間をゆっくりと振り返りました。「プロ野球選手として大事なのは結果を残すこと、ファンサービス、メディアサービス。そういったことを体現し、身をもって教えていただいた」と偲びました。強く印象に残っているのは「国民的行事」と言われた「10・8」です。1994年10月8日に巨人と中日が最終戦を残して同率で並び、勝った方が優勝という伝説の一戦です。試合前日、名古屋のチーム宿舎で長嶋監督の部屋に呼ばれた際のやりとりを一番の思い出に挙げました。「『監督、試合自体がしびれるんですけど、どれぐらいで用意しておけばいいですか?』と聞いても、『しびれるところで』と」。試合当日は槇原斎藤→3番手で3回無失点の力投を見せ、優勝を決めた決戦の舞台裏を懐かしみました。現在は、巨人の未来を背負う人材育成を担う二軍監督の立場にあり、長嶋さんからの学びを二軍選手全体にも伝えています。「やれないとプロとして一流とは言えないんだよという話は、長嶋さんから学んで若い選手に伝えているところ」。ミスターの魂は、しっかりと引き継がれていきます。

 巨人・長嶋茂雄終身名誉監督の訃報から一夜明けた4日早朝に、まな弟子の松井秀喜(50歳=ヤンキースGM特別アドバイザー)さんがアメリカから緊急帰国し、無言の対面を果たしました。弔問後に報道陣に応対した松井さんは、「長嶋監督と生前に約束したこともあります。今はお話しすることはできませんが、その約束を果たしたいなと思います」と知られざる思いを初めて明かしました。「約束」の内容を明らかにすることはありませんでしたが、松井さんにはかねてから監督就任への待望論の根強いものがあります。それだけに「将来的な現場復帰を志す声なのでは」と捉える球界関係者も少なくありません。松井さんが自らそういった発言をされることの意味は大きいものがあり、重みのある言葉であることには間違いないでしょう。

 長嶋さんといえば、数々の迷言も残しておられます。「失敗は成功のマザー」「勝負は家に帰って風呂に入るまでわかりませんよ」などは有名です。学生時代に、I live in Tokyo.を過去形に、との問題に、I live in Edo.とした珍回答には笑えます。「肉離れ」「ミートグッバイ」と言ったことには大爆笑でした。若手時代の松井秀喜さんに「松井君にはもっとオーロラを出して欲しい」と注文を出したのは有名な話です。60歳の誕生日を向かえた時には、赤いちゃんちゃんこを着用して、少し照れながら「初めての還暦を迎えまして…」と。2021年に文化勲章を受章した際には、「僕は文化勲章より世界遺産を狙っていたんだけどね」と規格外すぎる発想を見せました。長嶋さんといえば、ホームセキュリティ大手の「セコム」のCMに自らが出演して「セコムしてますか」という名セリフが有名でした。自宅にも設置しておられましたが、包丁を持った見知らぬ男が勝手口から侵入するという事件がありました。スイッチを入れ忘れておられた長嶋さんは、「ミスター、セコムしてなかった」と騒がれました。その時の囲み取材での言葉が傑作でした。「ええ、泥棒さんがお見えになりまして」〔笑〕。

 人間的な魅力はさておくとして、監督としては天才肌の人だけになかなかついていくのが難しかったと想像します。「パッと捕って、ビュっと投げる」という指導をする人です。「来た球を打つ。あるがまま、なすがままの境地ですよ」絶好調時の落合博満さんの打撃を解説していた時の言葉です。そこまで話すと突然、思い出したように「ピッチャーの配球を読んで打つなんて二流半のやることですよ」と言い切りました。「配球を読む」とは故・野村克也監督のID野球の真髄でした。長嶋さんは「来た球を打つ」という天才型でした。もちろん来た球を打てるようになるためには、人の見ていないところで、血ヘドを吐くような鍛錬を課していたのが長嶋さんでしたが。1998年夏、チームが不振で、ガルベス投手が審判員にボールを投げつけた不祥事に、監督だった長嶋さんは「けじめをつけるんだ」と、学生時代以来の丸刈りにして球場に現れたのにはビックリしました。頭を丸めてチームに奮起を促したのは今でも語り草になっています。

 高校(甲府商業高)を卒業したばかりの18歳が開幕から13連勝と勝ち続けたのは、1965年の第1回ドラフトで巨人から1位指名された、堀内恒夫さんでした。 「ボウヤ、いいぞ、ナイスピッチング!」 長嶋さん(当時30歳)は、サードからそう声をかけてくれました。まだ無名の高校出で、たぶん名前を知らなかったんだと思う、と堀内さんは回想します。自由奔放な発言もあり、つけられたあだ名が「悪太郎」。しかし、長嶋さんはそんなやんちゃな選手が大好きだったのかもしれません。「新聞記者たちが、堀内は生意気だと長嶋さんに言ったらしい。その時、『まだまだ子供じゃないですか。大人の振る舞いはボウヤにはわかるわけないですよ』って、かばってくれたんだ」 ボウヤを卒業して、「堀内」と呼んでもらえるようになったのは3年目になってからです。1973年12月に行った結婚式。当初、仲人は川上哲治監督が務める予定でしたが、同年6月、堀内さんが試合でKOを食らった後、川上さんが「仲人、やめる」と言ってきました。それを引き受けてくれたのが長嶋さんでした。川上監督が勇退した1974年、引き継いだ長嶋監督「堀内をトレードに出せ」と進言したという話がありました。1972年に26勝して、72、73年と連続で日本シリーズMVPの堀内さんです。でも、その話は長嶋さんが『堀内を出すわけがない』と断ってくれました。そのおかげで巨人一筋で200勝を達成することができました。昨年の8月26日、その堀内さんの長男・康史(やすふみ)さんが49歳の若さで亡くなりました。大動脈解離で倒れてから4年間の闘病生活を送りましたが、帰らぬ人となりました。康史というのは、長嶋さんにつけてもらった名前でした。

 徳光和夫さんの人気番組「プロ野球レジェン堂」においても、堀内さんが面白い話を披露しておられました。入団3年目、当時はグラブから人さし指を外へ出したら牽制のサインでした。ある日、長嶋さんが堀内さんに向かって指をグラブから出しながら「おい堀内、頑張れよ」と声をかけてきました。牽制のサインだと思った堀内さんが、三塁へけん制球を投げたらベースに誰も入っていません。無人です。長嶋さんは「何してんだ、お前?」と宇宙人でも見るような表情。頭にきて「サイン出したじゃないですか?」と指摘したら「いや、頑張れと言っただけだ」って。その後、堀内さんは2度と三塁へのけん制をすることはありませんでした。それが監督になった途端に「サインをよく見ろ!」と怒る。どう考えてもおかしい〔笑〕。ただ、悪いことは言えません。堀内さんの仲人ですから。

 長嶋さんにずいぶん可愛がってもらった柴田 勲さん(81歳)が 、印象的な話をしておられました。「おい、柴田、人間の理想の死に方って知ってるか?」「考えたことないです、長嶋さんにはあるんですか?」「うん、ある。晩年になった時に、縁側でコタツに入って、ひなたぼっこをこをしながら、みかんを食べる。食べ終わったらスヤスヤと眠るがごとく、そのまま逝く。それだよ」と言われたそうです。その思い出を、次女の三奈さんにしたら、驚いて、長嶋さんのお母さんのチヨさん(92歳で死去)が千葉の実家で亡くなった時がまさにそんな死に方だったと言われました。長嶋さんが柴田さんにその話をしてくれたのが、お母さんが亡くなる何年も前のことでした。まさに「予言者・長嶋」でした。柴田さんは長嶋さんがお亡くなりになってから、4日間長嶋さんのお顔を見るためにご自宅に通い続けられました。

 13年ぶりに読売ジャイアンツの監督に復帰した1993年に、日本テレビ系巨人戦中継テーマソングの「果てしない夢を」において、長嶋さんがゲストボーカルを務めました。1993年6月9日に発売されたシングル曲で、ZARD坂井泉水さん、WANDS上杉 昇さんが作詞。二人に加えて、ZYYGREVビーイングのアーティストたちが演奏や歌で参加し大きな話題になりました。オリコン・シングルランキングでは最高2位を記録し、72.6万枚を売り上げました。とてもいい曲で、最後に(3分40秒付近)長嶋さんのあの独特の歌声が出てきます。ご冥福を心よりお祈りします。その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球界の未来を照らし続けてください。合掌。♥♥♥

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