コダック社の誤り

 2012年1月、写真フィルム業界のあの巨人・コダック社は連邦倒産法第11章を申請し、倒産に至ります。市場を創造し、130年もの歴史を持つグローバル大企業にしては、何ともあっけない幕切れで、このニュースは日本のビジネスマンをアッと驚かせるものでした。同社は、世界の写真フィルム産業のリーダー企業で、しばらく前までは高収益の超優良企業でした。このような会社が倒産するなどというのは、日本ではまずありえない話です。ニュースを聞いて間違いではないかと思った人も多かったに違いありません。

 40年ほど前に起きた日本の富士フイルム(小文字の「フィルム」ではなく大文字の「フイルム」であることに注意して下さい)イーストマン・コダック社が、世界の覇権を目指して競争を繰り広げていた「フィルム戦争」を思い出します。当時はフィルムカメラ全盛の時代で、両社が世界的なシェア争いを続けていました。その時、コダック富士フイルムを潰そうと政治的な圧力までかけてきました。つまり自社さえよければそれでいいという利己的な経営戦略で挑んできたのです。それに対してはっきりとした対抗措置をとれない富士フイルムを見て、多くの人は命運が尽きたのではないかと危惧しました。実は、富士フイルムコダックだけを相手に考えてはいなかったのです。もっと広い視野で、将来を見据えて自社のフィルム技術を使って世の中に役立つものはないだろうか?と研究を推し進めていたのでした。その結果、カメラ用フィルムとは全く別の化粧品や医薬品の分野に進出し、現在も着実に成長発展を続けています。もう一方のコダック社は、フィルム戦争には勝ったものの、デジタル技術の急速な進歩に乗り遅れ、フィルムカメラは大きく時代後れになり、2012年に倒産してしまいました。自社の利益だけを考え、ライバル企業を潰すことのみに執着してしまうと、視野狭窄になって失敗してしまう好例です。競争相手のみを意識しすぎると発想が狭くなり、こだわりが生まれ発展を妨げるのです。「利己」ではなく「利他」の重要性です。興味を持った私は、このコダック社について詳しく探ってみることにしました。

 コダックは、1884年にジョージ・イーストマンが創業した企業です。家計が苦しかったイーストマン一家に生まれたジョージは、14歳から保険会社で働き始め、銀行へと転職して、家計を支えます。転機が訪れたのは彼が24歳の時でした。趣味として湿板技術による大きな写真機材を持っていたジョージは、湿板技術の不便さを感じるとともに、いつでも撮影できるようになる乾板技術の可能性にいち早く気づきます。そこで、銀行に勤めながらも、その傍らで乾板のプロセス技術の開発に精を出し、3年後の1880年、ようやく乾板そのものと乾板生産技術の完成に至り、その特許を携えて銀行を退職しました。確固たる技術をベースにしたベンチャー企業の誕生でした。ついに1880年10月、ヘンリー・ストロングという人の資金援助を得て、自ら製造工場を作り、「イーストマン乾板」と命名して市場に売り出しました。便利で安いというので注文が引きも切らず、その評判はたちまち全米に行き渡って、創業一か月で4千ドルもの売り上げがあったのです。ところが、翌年の春になると、注文がばったりと止まってしまいました。どうしたのだろう?と首をかしげていると、取引先の商人が怒鳴り込んできました。 「あの乾板は、一冬越したらまるで駄目になってしまった。あんな不完全なものを押しつけては困るじやないか。おかけでこのごろは、お客様から小言や苦情ばかり持ち込まれてえらい迷惑だ」 そこでイーストマンは自分でも試してみると、まさしくその通りでした。 「これはいかん。こんな不完全なものを売っては、信用にかかかる。人間は信用が第一だ」どうすればいいかと考えて、彼はあることを決心します。そして、早速印刷物を作って、全国の取引先に送った。それには、こういう意味のことが書いてあった。 「不完全な製品のために多大なご迷惑をかけ、なんともお詫びのしようもありません。残品があったら原価で引き取りますから、全部ご返送ください。思うところがあって、一旦工場は閉鎖いたしますが、いずれ完全なる製品を作ってお目見えするつもりであります。その節には、是非倍旧のご援助をお願いいたします」 イーストマンは、返ってきた残品を片っ端から壊してしまいました。そして工場を閉鎖すると、忽然と姿を消し、イギリスに渡りました。そこでニューカッスル写真研究所の研究生として約半年間研究を積み、ついに何年経っても性能の変わらない乾板の発明に成功しました。そこでまたアメリカに舞い戻り、工場を作ります。取引先では、彼が以前、残品を引き取って木っ端微塵にしたことを知っていました。新しく売り出す以上は必ず完全なものに違いないと考え、すぐに取引を開始してくれました。かくして、イーストマンコダックは全米を征服し、ついには世界のコダックに成長したのでした。不良品を売っては信用にかかかる。だから、全てを引き取って完全に壊してしまい、完成品を作り上げて出直す、その筋道を顧客に見せることによって、イーストマンは信用を失わずに済んだのでした。「正直」という一点について教えてくれる逸話です。ちなみに、コダックという名前が社名になるのは、創業後のことです。コダックという言葉そのものに特に何か特別の意味があったわけではありません。後にジョージが語ったところによると、彼はKという文字に力強さを感じ、Kで始まりKで終わる組み合わせの中から、「KODAK」という言葉を生み出したとのことです。そして、1888年にはこのKODAKブランドを付けたカメラが売り出され、1892年には社名もイーストマン・コダックに変更されます。

 ジョージは、写真というものはプロのためだけではなく、一般の家庭に浸透するべきだ、という考えを持っていました。面倒なカメラのプロセスをもっと簡単なものにして、「カメラを鉛筆並みの便利な道具に生まれ変わらせたい」という想いを胸に、彼はいち早くフィルムビジネスの未来を読み解き、ガラス製写真感光板の製法を確立します。そして、世界で初めてロールフィルム、後にカラーフィルム(1935年)を発売するのです。当初、フィルムというものがまだ存在しなかったため、コダックはその浸透に努めました。つまり、フィルムそのものの認知を高め、より多くの人に実際に使ってもらうことが大切だったのです。そのためには、技術への投資のみならず、営業やマーケティングへの投資も必要不可欠と判断したコダックは、大々的な宣伝への投資とフィルム販売店との関係強化に努めます。特に、「あなたはシャッターを押すだけ、あとは当社にお任せください」というキャッチフレーズの広告で市場に大きなインパクトを与え、フィルムカメラがどのようなものか分からない顧客に対する認知度を大いに高めました。さらに、フィルムの浸透を図るために、価格面においては「レーザーブレード戦略」を採用しました。つまり、髭剃り本体を安く販売して替え刃で儲ける商売のように、カメラを低価格で売って、その後のフィルム販売で儲けるようにしたのです。このように時代を見極めて正しい戦略を推進した結果、コダックはフィルムの市場拡大ともに、順調に成長していったのでした。1962年には、コダックの売上は10億ドルに達します。さらに同社は、一般消費者向けにとどまらず、医療用画像やグラフィックアート向けにも領域を拡大しました。こうした製品のほとんどは、銀塩技術を使い、少しずつ改良を重ねたものでした。そして、コダックは、1976年にはアメリカ国内のフィルム市場の90%、カメラ市場の85%を占めるようになっていました。圧倒的ナンバーワンであり、コダックの技術的な強さと市場への展開スピードにより、有力な競合他社が現れることはありませんでした。そして、創業して100年が経とうとする1981年に、コダックの売上はとうとう100億ドルに達したのです。さて、問題はここからでした。

 コダックはデジタル技術にそれほど遅れていたわけではありません。実はコダックは、ソニーよりも前に1975年、世界最初のデジタルカメラの試作機を作った会社でもありました。デジタルカメラの普及版となるカシオ計算機「QV-10」が世に出たのが1995年のことですから、それより20年も前にコダックはデジタル化の流れに気づき、開発投資を行っていたのです。しかし、コダックは、それと同時並行で「フォトCD」というデジタル写真の保存用製品を商品化します。コダックは、写真ビジネスは「撮影」だけで儲けるのではなく、その後工程の「現像」「印刷」に大いなる利潤があることを長年の歴史を通じて知っていました。デジタル化の時代になったとしても、ビジネスモデル全体を押さえなければ、今まで通りの売上や利益を確保できない。そう考えて撮影だけにとどまらない技術開発を行ったのです。しかし、コダックはその後、悲劇的な結末を迎えます。結果的に、デジタルカメラにおいては1990年代後半には多くの会社が参入し、コダックは競争力を失います。そしてデジタルデータの記録媒体は独自の進化を遂げ、「フォトCD」の定着には至りませんでした。さらに既存事業であるフィルムも、残存利益の確保において富士フイルムの価格攻勢に遭い、収益力を失ったまま、デジタルカメラの浸透によって完全に道を閉ざされてしまいます。

 写真フィルムは、かつて世界でわずか4社しか製造できなかった商品です。アメリカのコダック、ドイツのアグファ、日本の富士フイルムコニカの4社の寡占市場でした。そのために、上位企業はかなりの利益を得ていました。ところが、デジタル写真技術の進歩で、銀塩式の写真フィルムの需要は縮退してしまいました。4つの企業の縮退への対応の仕方は、お国柄を反映してずいぶんと異なっていました。

 ドイツのアグファは、X線写真とその解析技術を深掘りし、プロ用の市場、医療用の市場というニッチを深く耕すことによって生き残りを図ろうとしています。このような専門市場は大きくはないものの、技術が生み出す価値に対する対価を払ってくれる市場です。規模を求めないドイツ的な対応です。日本のコニカは、写真機メーカーのミノルタと合併し、デジタルカメラや複写機など技術の幅を拡大し生き残ろうとしています。同じく富士フイルムは、もともと事業の多角化を進めてきた企業ですが、複写機、デジタルカメラ、電子部品・電子材料など、蓄積された技術の周辺で応用分野を広げる形での事業・商品の広範な多角化によって生き残りを図ろうとしているのです。それに比べると、コダックは、企業買収で事業の多角化を図りましたが、社内技術の深耕や幅の拡大にはそれほど熱心ではありませんでした。その背景には、企業の多角化に関するアメリカの投資家の否定的な態度があります。アメリカの投資家は、企業が事業を多角化しても投資効率が改善されることは少ないと考えます。多角化するぐらいならそのお金を投資家に還元すべきだと考えるのです。企業は余剰なキャッシュを持つべきではないし、事業は集中化すべきだと考えます。こうした投資家の意向を大切にしたコダックは、事業の多角化に慎重にならざるを得ませんでした。

 実はコダックは、商品化されなかったものの、1975年には世界最初のデジタルカメラを開発し、その後、世界初のデジタル一眼レフカメラを1999年に市販していました。つまり、コダックはデジタルカメラの時代潮流を完全に予測し開発を行っていたのです。しかし、デジタル化への対応にそれほど力を入れておらず、それには理由がありました。 

①好業績企業の傾向 

 デジタル写真ではそれほど利益が上がらないと考えていたからです。ここに好業績企業の陥る罠があります。 企業では、「現在フィルム事業で儲かっているのに、なぜ、利益の上がらないデジタル化の事業に手を伸ばす必要があるのか? 」 つまり、「70セントを稼ぎ出すフィルム事業を5セントしか稼ぎ出せないデジタル化事業に慌てて転換するのはベストではない!」 という考え方です。好業績企業の多くが陥り易い考え方です。その意味で、常に時代の潮流を洞察し、好調な時にこそ、変化の兆しを的確に把握する予知能力と、余裕のある時に機会を捉えて思い切ったパラダイム転換をはかることが必要になるのです。 

②イノベーターのジレンマ 

 優良企業は、既存の顧客や投資家のニーズを重視するが故に、評価がまだ未知の、リスクの大きい、効率の悪い新技術への投資に対しては消極的になりがちです。たとえ、将来的に大化けする可能性を有した技術であっても、顧客や投資家が望まない投資行動は排除する論理が優先されるのです。新技術は、当初、小規模市場から受け入れられるので、大企業や短期リターンを重視する投資家は、小規模市場が成長するまで待つことを嫌がり、そうした市場に参入したがりません。新技術が成長して既存技術を脅かす破壊的技術に変わった時、これをうまく取り込めなかった大規模な優良企業は市場から駆逐されていきます。 このような現象を「イノベーターのジレンマ」と呼びます。1990年代後半から2010年代までのデジタル技術革新に対するコダックの対応も、このような現象の典型的な例でした。 

③閉鎖的な企業環境・企業文化、自己満足の文化 

 銀塩写真の技術開発への積極的な投資、製造への厳密なアプローチ、そして、地域社会と良好な関係を維持して行きたいというコダックの願望から生じたこだわりが、自己満足を招き、コダックは閉鎖的な企業環境に陥ったと言えます。

 それに対して、富士フイルムの対応は全く異なっていました。

①時代潮流の洞察と対応 

 富士フイルムは、常に時代の潮流を洞察し、将来の姿を予測し、変化を恐れずに変化に積極的に対応して、デジタル化という時代潮流のもとでの価格競争を含む激しい企業間競争が収益性の低い厳しい闘いになることを、理解していました。デジタル化は、時代の潮流なのでこれに積極的に対応することが必須であるとの考えから、これを積極的に推進しました。

②危機意識 

 経営陣が日頃から時代潮流の洞察を的確に行っていたので、デジタル化に対しても深刻な危機意識を共有していました。デジタル化は経営方法を大きく変え、これまでの銀塩写真のような収益は上がらないことも覚悟していました。  こうした心の準備を事前に持っていたことによって、危機に際して迅速に構造改革の断行ができたと考えられます。 

③社風・企業文化 

 富士フイルムは、“ コダックに追いつき追い越すこと ”を目標に、研究開発を積極的に推進してきました。創業以来富士フイルムは、研究開発を重視するという社風・企業文化を有していました。しかし、パラダイム変換に対応するべく、1つの考え方に固執せずに、多様性を尊重し、自社の保有技術を水平展開する方向に転換しました。また、富士フイルムは、自社の成長を追求するだけではなく、一企業の範囲を超えて写真文化を大切にするという文化的価値観も持っています。東日本大震災で流失・損傷した被災者の写真を再生する活動を通じて、被災者に寄り添い彼らの苦痛を和らげ、歴史の記録を後世に残すという写真文化の重要性を改めて再確認しています。  

④企業ビジョン 

 経営トップが企業ビジョンを明確にし、機会を捉えて内外に明示しました。「21世紀を通じてリーディングカンパニーとして生き続ける」という富士フイルムの将来ビジョンを明示し、「Vision75」でその基本方針を内外に示しました。それを既存技術の棚卸しの実施と事業ドメインの構築でさらに具体化させました。 経営危機に陥っている他の企業の構造改革の発表内容を見ていると、「自分の会社がどのような方向に進もうとしているか」のビジョンが全く示されずに、目先の短期的な目標達成に目を奪われている場合が少なくないと言えます。変化の時代に、自社の経営資源を活用してどのような経営を目指そうとしているかのビジョンを示すことが極めて重要だと言えるでしょう。

 以上のことから、両社のデジタル化への対応には、大きな差が生まれました。コダック富士フイルムの対応の違いには、変化への洞察力と基本的姿勢の違いが大きく影響していたと考えられます。デジタル化が時代の潮流になることは両企業とも認識していましたが、そのインパクトを楽観的に受け止めるか、悲観的に受け止めるかで、危機意識の違いになって現れています。この違いの背景には、自企業の強みと弱み、企業文化・企業風土が大きく影響していると考えられます。自企業の強みと弱みについて、コダックは銀塩写真で技術的にも経営的にも世界一のゆるぎない地位を確立していたので、技術的にも経営上何ら問題はないと考えたのでしょう。コダックにとっては、現状維持こそが重要な戦略であり、変化に対する姿勢としては、当然、消極的・否定的でした。 一方、「コダックに追いつき追い越せ」を目標にしていた富士フイルムは、現状維持ではいつまでも世界 No.2の地位を打破できないと考えていました。研究開発力、経営力を高めて世界に打って出るためには、変化を自ら起こす必要があるから、変化に対して肯定的、むしろ、変化を積極的に追求する必要がありました。コダックと異なり、富士フイルムはデジタル化のインパクトを深刻に受け止めていましたが、これに前向き・積極的に対応することが必要であるとも考えていました。その結果、富士フイルムは、破壊的技術の到来をバネに関連事業への多角化を進め、複写機、デジタルカメラ、電子部品・電子材料など、蓄積された技術の周辺で応用分野を広げる形での事業・商品の広範な多角化展開によって生き残りに成功しました。現在、富士フイルムでは、主力のフィルム事業からは脱却して、医薬品、化粧品やサプリメント、医療機器、再生医療、バイオ医薬品開発を主事業としています。一方のコダックは、企業買収という形で事業の多角化を図りましたが、社内技術の深耕や幅の拡大にはそれほど熱心ではなく、機動的で大胆な経営を避けました。その結果、倒産という結末に陥ったのです。つまり、この両者の経営姿勢の差が、会社の破綻と成長の命運を分けたと言えましょう。

 このような先人たちのジレンマを知っておくだけでも、物事を客観的に考えるきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。以上、一度大成功を収めた企業が、重要な戦略変換のタイミングで二の足を踏んで変わることができずに倒産してしまったパターンとして、コダックの例を紹介しました。♥♥♥

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