渡部昇一先生のエピソード(41)~100点を取る!

    故・渡部昇一先生上智大学の学生だった頃、英語の授業では日本人の先生でも、毎時間のようにディクテーション(書き取り)の試験がありました。それを採点して次の時間に返してくれるのですから、すごい学校だなと思いました。大学というより、ほとんど「道場」のようなものです。渡部先生も若かったので、それに応えていく快感がありました。青年というのは、鍛えられて伸びていくという感覚があればいいのです。

 定職に就くことなく50歳を過ぎていた先生のお父様が、偶然の縁で就職することになりました。そのおかげで先生は大学を受験することができたのです。そんな先生が、大学一年生の夏休みで帰省したら、お父様が仕事をクビになっておられました。授業料一年分はすでに納めてありますから、寮にいる限りお金の問題はありませんでしたが、来年の分の見通しは全く立ちません。育英会などの奨学金も一切申請していませんでした。まさに目の前が真っ暗になりました。上智大学で圧倒的な知の世界の扉を開けてもらった感じでいた先生は、そこから退出してしまうことだけは絶対に嫌です。どう考えてみても残された道は一つだけしかありませんでした。それは特待生になり、翌年の授業料を免除してもらうこと。その確実な道は、英文科で首席になることでした。時には一学科から特待生が二人ぐらい選ばれることはありましたが、それでは当てになりません。一番であれば大丈夫です。先生は、とにかく何としてもトップにならなければなりませんでした。それは、第一には生活のためでした。一番になれば、必ず授業料が免除になるからです。というのも、今後授業料を親から送ってもらうメドが立たなかったのです。そして、今のようにアルバイトの仕事が簡単に見つかる時代でもありませんでした。終戦直後であり、当時の名も無い上智大学では家庭教師のようなうまい話もありません。ですから、どうしても授業料免除の特待生にならなければなりませんでした。「絶対に一番にならなければならない!」という決死の覚悟で、東京に戻りました。

 ところが一番になろうとすると、どうしても「点取り虫」にならなければなりません。それは今まで小・中・高のどこでもやったことのなかった体験です。すると、どうしても同級生たちの成績が気になり、失敗を頼む気持ちが湧いてくるのです。これはよく考えてみると、実に卑しいことでした。そう思うと、一番を目指すのは先生にとっては心理的に辛いものがあったのです。他人の成績が気になるということは、いかにも卑小で恥ずかしいことのように思われたのでした。そうしないで必ず一番になる道はないか?と考えた時、「全ての教科で100点を取ることだけを目的にすればよいのではないか?」というアイデアが浮かんだのです。そして、それを断乎実行しようと決心されたのでした。他の人のことは考えず、講義に全力集中して、全学科に100点を取ることだけを目指せば、卑しい思いから逃れることができるわけです。

 「全学科100点」を目指すために、毎日朝早く起きて、5時45分に洗面所に行って水をかぶりました。正月休みで帰省するまで1日も欠かすことはありませんでした。冬は寒かったけれども、水をかぶります。水で目を覚ましてそれから勉強をしました。全ての授業では、最前列で教授のすぐ前の席を取ります。他の学生の存在を気にしないで、講義に集中するためです。これは高校時代の恩師の佐藤順太先生の英語の時間だけにやっていたことでした。当時の上智大学は午前中に授業がみっちり詰まっていましたが、午後一時以降は授業はありませんでした。先生はアルバイトは一切せずに全部を勉強時間に充てました。そして、その日の講義のノートは寮に帰ったら何よりも速く丁寧に読み返して検討し直し、分からないところがないかどうかをチェックします。もしあったら次の時間か、あるいは教授控え室に行って質問をします。渡部先生は、これを卒業するまで厳格に自分に課されました。1年生の通信簿では全科目100点かそれに近い点数を取ることができ、2年生からは特待生になれました。2年生からは日本育英会の奨学金を、荘内育英会(旧藩主酒井家と酒田の富豪の本間家が創設)、そして克念社育英会(鶴岡の風間家が創設)の奨学金をいただくことができ、全てを本代に注ぎ込むことができました。こうなったらせっかくだから卒業するまで100点主義を貫こうと考え、卒業までずっと特待生を続けることができました。その結果、大学四年の頃の先生の成績は、全教科の平均点が90点以上でした。当時の上智大学の成績表は100点満点の記入法でした。二番の学生の平均点が80点台でしたから、全20科目を総合すると200点ほどの差ができていました。競争心を排除するために、ただひたすら100点を求めた結果がこれですから、我ながらよくやったと言っていいのではないか、と回想しておられます。いつも100点を取ろうと頑張っていた先生は、はた目には「点取り虫」に見えていたかもしれません。しかしそのおかげで、嫉妬心や競争心にとらわれず、他の人の成績を気にかけることなく勉強に集中できたのです。先生自身、嫉妬心や競争心はありましたが、若い時にこういうやり方で克服した経験があるということで、多少の自制力ができたのではないかと振り返っておられました。油断すればまたすぐ出てくるでしょうけれども、どこであろうと、今いるその場所で頑張る、それが人生に後悔しないためには非常に重要なことではないでしょうか。

 動機は授業料を節約するという金銭的なものでしたが、自然科学の授業にも真剣に没頭しました。専門課程ではないにせよ、大学教養レベルの自然科学の諸科目の試験を受け正確に理解しているという保証を得たため、その後の人生においても、自然科学関係の話題にも興味を持ち続けることができました。教養課程の諸科目を「百点取り虫」になるべく精魂傾けた結果、いろいろな学科がよく分かるようになり、興味を持つ範囲がうんと広くなりました。先生の膨大な著作が英語学以外の多岐にわたった背景には、このような学生時代の取り組みがあったのです。♥♥♥

カテゴリー: 渡部昇一先生のエピソード パーマリンク

コメントを残す