仕事と遊び

 マークー・トウェイン『トムーソーヤの冒険』の中にこんな話があります。ある夏の土曜日の朝、トムはポリーおばさんから塀のペンキ塗りを命じられました。トムは仕方なしにいやいやペンキ塗りを始めますが、その塀はとても長く、今日中にはとても終わりそうにありません。そこでトムは一計を案じ、いかにも愉しそうにペンキ塗りをすることにしました。その姿を兒て、通りかかった友だちが、次々に「僕にもやらせてよ」と頼んできます。トムはしめたと思い、最初、わざと断ります。やりたくて仕方がない彼らは、「そんなこと言わないでさ」と、リンゴやおもちゃなど自分の宝物まで差し出して頼み込みます。トムはしぶしぶ折れるフリをして彼らにペンキ塗りをやらせてあげるのです。おかげでトムは、いやなペンキ塗りから解放されました。この話は、「仕事」とは何か、「遊び」とは何か?を考えるうえで実に示唆に富んでいます。トムにとって塀のペンキ塗りは、やりたくない「仕事」でした。しかし、トムの芝居にまんまとひっかかった友だちにとっては、宝物と引き換えにしてでもやりたい愉しい「遊び」だったのです。ペンキ塗りという行為そのものは一緒でも、いやだと思えば苦痛でしかないけれども、愉しい、面白いと思えば、このうえない喜びになります。「仕事」も「遊び」に化けるのです。ここから導き出される教訓は、いろいろあるでしょう。仕事が面白くなるかどうかは本人の気持ちの持ちよう一つとも言えるし、部下のやる気を引き出すには職場の雰囲気づくりが大事だともいえるでしょう。あるいは、人に「どうしてもそれが欲しい、やりたい」と思わせるには、なるべくそれを入手困難、実現困難にすればいい、とも言えるでしょう。しかし、この話からくみ取るべき大切な教訓を探すとすれば、それは「仕事とは、いやでもやらなければならないこと」であり、「遊びとは、しなくてもいいのにあえてすること」だという、人生の真理ではないかと思います。

 釣りは、漁師にとってはいやでもやらなければならない「仕事」ですが、それを趣味にしている人にとってはやらなくてもいいのにあえてする「遊び」です。同じように将棋は、プロ棋士にとっては仕事ですが、趣味で指す人間にとっては愉しいゲームです。テニス、絵画、ピアノ、陶芸、……何でもそうでしょう。やらなければならないことか、しなくてもいいのにあえてすることか、「仕事」と「遊び」の大きな違いはそこにあるのです。さて、そうなるとこんな疑問をもつ向きもあるでしょう。「仕事が大好きで、愉しくてしかたがない人、自腹で仕事の勉強をしたり、やらなくてもいい残業や休日出勤まで喜んでするような人はどうなのか?」と。その問いに対する答えは簡単です。そういう人にとって会社の仕事は、やらなければならない「仕事」であると同時に、しなくてもいいのにあえてする「遊び」でもあるのです。世の中には仕事がいやでいやでしかたがない人がたくさんいます。それを考えれば、仕事が好きで、面白くてしかたがない、という人は幸せです。ロシアの文豪・ゴーリキーは、「仕事が義務なら人生は地獄だ。仕事が愉しみならば人生は極楽だ」と言っています。

 仕事を愉しめる人は、自分のやるべき仕事を、しなくてもいいのにあえてする「遊び」の領域にまで広げられる人なのだと思います。仕事をいやいややる人と、愉しみながらやる人と、どちらがいい仕事をするかは言うまでもないでしょう。愉しみながらいい仕事ができたら、これほど素晴らしいことはありません。その意味では、もちろん、「趣味は仕事」「仕事が生きがい」という人生があってもいいのです。ただし、サラリーマンの場合、自営業と違って、仕事は一生できるわけではありません。定年後、再就職したとしても、いつかは仕事を離れる時が来ます。いくら仕事が遊びのようなものだといっても、仕事を離れてしまえば、その愉しみはなくなってしまいます。実際、現役のときは仕事が面白くてしかたがないといきいきしていたのに、リタイアしたとたん、秋枯れの木立のようにしょぼくれてしまう人が少なくありません。仕事を愉しみにするのはいいのですが、仕事の他に愉しみを知らない人の老後は、やはり寂しいのではないでしょうか。仕事を辞めた後の人生は長く、平均寿命を考えれば、65歳まで働いても、あと20年はあります。この第二の人生を愉しく愉快に生きていくには「遊び」が不可欠です。だから、仕事が愉しい人も、愉しくない人も、若いうちから、もっと遊んだほうがいい。それには、面白そうだなと思ったら、とりあえずやってみることです。他人から見たらバカげたことでも、何かしら心に響くものがあれば、まずは手を出してみることです。

 ちなみに、「仕事」「趣味」の違いについて、スイス人のカール・ヒルティが、一所懸命にやった途端に面白くなるのが「仕事」で、やっているうちに飽きてくるのが「趣味」なのだと言っています。まさにこれこそが判別式だと思います。

 例えば、私は若い頃、将棋が好きでよくやっていました。将棋本をむさぼり読んで、相手を見つけては対局して、コンピューターの将棋ソフトものぼせてやっていました。学園祭の将棋大会に出場したり、定期考査の期間中には、好きな先生方が集まってトーナメント大会をしょっちゅう開催していました。けれども、いくら好きだと言っても、3日も4日も続けてやっていると、さすがに飽きてしまいます。また、40代以降はマジックにのぼせて、不思議な作品を大量にアメリカから航空便で取り寄せては演じていました。解説動画や説明書と悪戦苦闘しながら手順を覚えていくのは、何よりも楽しい経験でした。でもいくら面白いからと言って、それを1週間ぶっ続けでやれるかというと、ちょっと無理ですね。つまり、私にとっては、将棋もマジックも「趣味」以外の何物でもなかったということなんです。

 ところがこれに対して、英語のほうはどうかというと、二ヶ月でも三ヶ月でも、三年でも五年でも、あるいは四十年以上も平気でのぼせてやってこれました。辞書一つ引くだけでも、その奥深さに感動したものです。そしてそれをやっているうちにどんどん面白くなっていって、さらに勉強しようという意欲が湧いてきました。故・竹林 滋先生(東京外国語大学名誉教授)のお導きで、若い頃から辞典の編集にも携わらせてもらい、英語への興味・関心はますます深いものになっていきました。英語を勉強しない人には絶対に分からないであろう独特の楽しみ、言うに言われぬ喜びを味わえるようになっていきました。最近は、その成果をさまざまな形で、全国の先生方や若い先生方に提供して、ご恩返しをする毎日です。これこそが、ヒルティの言うところの「仕事」なんです。

 ある事に一所懸命になって自分を沈潜させてみたり、身も心もくたくたになるくらいに全力投球をすることで、面白さが出てくるもの、それが「仕事」なんです。本当の「仕事」と言えるようなものを持ったことがない人は、このような面白さ・喜びは味わったことがないはずです。職業を次々と変えて転々とする人がいます。彼らは何かをやってはすぐに飽きて面白くなくなり、また次のことをやり、また飽きて次へということを繰り返していきます。これでは「仕事」をしているとは言えない、とヒルティは言っているのです。

 「仕事」を楽しみとして感じることができるのは、精一杯仕事をやっているだからこそです。嫌な思いをしたからと言ってすぐに辞めてしまうようでは、決してこれら無上の楽しみは味わうことができないでしょう。辞めてしまうのは、その人が「趣味」としてしかそのことに関わっていないということです。「石の上にも三年」という古い諺がありますが、それくらい辛抱しなければ何事も報われることはないでしょう。♥♥♥

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