源助柱

 古くから風光明美な城下町として知られる、水の都・松江。私はその松江に長年住んでいながら、知らないことが数多くあります。「あ~、こんなことも知らなかったのか!」新しく始まったNHK連続ドラマ「ばけばけ」は、そんな松江の歴史を掘り起こして気づかせてくれます。そういう意味で貴重な番組です。松江の観光客の集客に一役買ってくれるといいですね。

 

 

    松江の市街地は宍道湖中海を結ぶ大橋川で南北に分かれており、「松江大橋」はその大橋川に架かる橋で、松江を代表する名所の一つになっています。橋の長さは約130mで、御影石でできた欄干は20個の擬宝珠(ぎぼし)で飾られ、橋の中程には夜になると点灯される4つの灯籠がある風情のある橋です(写真上)。今回取り上げるのは、この町で最も古い橋である松江大橋」の悲しい伝説「源助柱」(げんすけばしら)です。きっと、セツ八雲も目にしたであろう、松江の風景です。

    ドラマの中でトキ松江大橋を渡る時、手を合わせるのが「源助柱」です。友人サワが語るように、架橋のために人身御供ごくうにされた男の話が伝わります。松江開府まで「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れるる簡易な竹の橋が1本あるきりだった大橋川に、松江城築城の物資を運ぶ荷車が通れるための頑丈な橋を架けるよう、堀尾吉晴公より命がくだったのは慶長年間(17世紀初頭)のことでした。しかし洪水や軟弱地盤ゆえに失敗が続き、工事は難渋を極めました。柱を支える堅固な川底がないようで、巨石をたくさん投げ込んでも甲斐かいがなく、いったん橋がかかってもすぐに柱が沈み出す始末で、修復してはまた壊れるの繰り返しだったといいます。そこで困り果てた末、人柱、つまり中央の橋脚の下に人を一人、生き埋めにして水神の怒りをなだめることになったのでした。その日の朝一番にマチのない袴をはいて「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係もない足軽の源助がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められました。このような経過を経て、橋は慶長13(1608)年にやっと完成し、これが初代の「松江大橋」とされています。八雲は人柱の伝説についてこんなふうに記しています。

この人柱に立った男は、雑賀町に住む、源助というものであった。なぜこの男が人柱に立ったのかというと、昔から、まちのついていないはかまをはいて、はじめて新しい橋を渡ったものは、橋の下に生き埋めにされるというおきてがあって、たまたま源助はまちのない袴をはいて橋を渡ったところを見とがめられたので、かれが人身御供に上がったというわけであった。そんなわけでこの古い方の橋の、まんなかにあった橋ぐいは、犠牲者の名をそのままとって、三百年このかた、源助柱と呼ばれていた。

 源助のはいていた「まちのない袴」とは、股が分かれていないスカート状の袴のこと。「行燈袴」とも呼ばれて、現代では袴といえばこの形が主流ですが、源助の時代には股が2つに分かれた「馬乗袴」が多数派。珍しい「行燈袴」姿だったために、源助は不運にも人柱にされてしまいました。いわばハズレくじを引いたようなものです。誰をどんな理由で選んだとしても遺恨は残るわけですから、人意ではなく神慮に委ねたのでしょう。まさに「天の神様の言うとおり」というわけです。また八雲は、「源助柱」について、月のない晩など丑満時うしみつどきになると、「源助柱」のあたりにしきりと鬼火が飛んだという言い伝えも紹介しています。

 松江では、「源助柱」の言い伝えはいくつかの説があります。八雲の記したマチのない袴の人物説の他に、横しまの継ぎがあたった袴の人物を選んだという説や、実は人柱の条件を言い出したのは源助自身だったという説も。またお茶どころ、松江らしいこんな話も伝わります。朝、お茶を飲んで出ようとする源助を妻が引きめて2服目をすすめたけれども急ぐ源助は断りました。2服目を飲んでゆっくり家を出れば人柱になることもなかったのに……と。だから松江ではお茶を1杯だけで済ませるのは縁起が悪く、2服は飲むものだといわれます。

 その後、松江大橋は何度も架け替えられ、八雲が松江に来た明治23(1890)年8月は、15代目の架橋工事中。翌1891年3月の開通時、八雲は宿の2階から渡り初めの様子を見たと記しています。北詰から見た松江大橋。潮の満ち引きなどによって流れる方向が変わり、橋脚付近は流れが複雑です。その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、今の松江大橋は昭和12(1937)年に完成した第17代目です。かげ石の欄干と唐金の擬宝珠ぎぼしが印象的で、日暮れ時になると4基の灯篭にあかりともります。その南詰の小さな公園には「源助柱記念碑」が建てられ、架橋による町の繁栄の影に尊い犠牲があったことを伝えています。

 松江大橋の南詰めにある「源助公園」には、橋の建設での尊い犠牲者を供養する2つの石碑があります。一つは人柱となった源助の碑で、もう一つは現在の橋の建設中、落下した鋼鉄製のバケットで頭を打って亡くなった深田清技師の碑です。深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚の側であったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたそうです。大橋近くのスティックビルの筋向かいにある龍覚寺には、源助の木像と石の源助地蔵が祀られています。♥♥♥

▲深田技師の記念碑も

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