『正しすぎた人』を読む

 私は私の信念にのっとって監督を務めてきた。その点については何ひとつやましいことはない。カンニングをしてまでテストに合格したいとは思わない。そんな消極的な思いは、できるだけ心から遠ざけて生きてきたのだから。

 健全な肉体に健全な精神が宿るんじゃないんだ。健全な精神が健全な肉体を作るんだ。心の持ち方が、肉体にいろいろな影響を及ぼすんだ。肉体だけじゃないよ、その人の運命にも影響を与えるんだよ。だから人間は、どんなときでも心は断固として積極的な状態にしておかねければいけない。ズルいことをしたり、ラクをしたりしてはいけないんだ。

 プロは結果がすべての世界だよ。そんなことは私もよくわかっている。しかし、だからと言って、何をやってもいいというわけではない。正しいことを、正しい方法で取り組まなければいけない。正しくないことをやって手にした結果をほしいとは私は思わない。   (広岡達朗)

 広岡さんほど評価の分かれる監督も珍しいと思います。伊東 勤(いとうつとむ)さんの『黄金時代の作り方 あの頃の西武はなぜ強かったのか』(ワニブックスPLUS新書、2025年2月)とには、広岡達朗監督には感謝しきりであることを明言しておられました。

 唐突ではありますが、あらかじめ言っておきますと、これから西武ライオンズ黄全期を築いた広岡達朗監督の管理野球についていろいろと綴る中で、何か広岡さんに対して否定的な印象を持たれるかもしれません。
 でも、私は本当に広岡さんには感謝しております。若いうちに体づくりの基本を叩き込んでくれたこと、レベルの高い野球を目指すために必要な練習を教えてくれたこと、これらは、私がその後の長い間、野球選手として、また野球指導者、そして解説者として生きていく上で、大いに役に立ちました。
 そして、強いチームで野球ができたことで得られたものは私の財産になっています。そのことだけははっきり書いておきます。

 西武の教え子の石毛宏典(いしげひろのり)さんも証言しています。「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の 野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね 石毛さんはそう断言して、広岡野球を高く評価しておられます。

 実働29年間もプロの世界で活躍された工藤公康さんも数々の著書の中で、広岡さんに非常に感謝していることを書いておられました。最新刊の『工藤メモ』(日本実業出版社、2025年)の中でも、「私がプロ野球選手となり、当時の監督だった広岡達朗さんから「基本は“体で覚える”もの」だと教わりました。体で覚えるには、徹底してその動きを反復練習するしかありません。キャンプでは明けても暮れても基本の練習ばかりで「こんな基本練習ばかりして意味あるの?」と若かった私は思ったりもしましたが、今となっては「あの頃に体で覚えた基本があるから、プロで長くやることができた」と理解しています。広岡さんには本当に感謝しかありません。」と述べておられました。

 かと思うと、徳光和夫さんが司会をする「プロ野球レジェン堂」の中で、東尾 修さんなどは広岡さんのことはボロクソです。徹底した管理野球の冷酷な絶対権力者というイメージです。1985年の日本シリーズ終了後、選手全員で治療を兼ねた1泊の伊香保温泉旅行に出かけたバスの車中に「広岡監督は今年いっぱいでユニホームを脱ぐことになりました」と連絡が入った時に、みんながワーッて大歓声を上げて、さらに万歳三唱した想い出を語っておられました。あの大投手・江夏 豊さんも酷評しておられます。『これが、言いたいことのありったけ』(昭和59年、徳間書店)の言葉です。

 広岡さんほど勝つことに貪欲な人はいない。ワシが広岡さんに一つの思いを寄せたのも、その勝つ姿勢にだった。その監督がその姿勢を捨てた時、ワシに疑問が起こってきたのだ。   
 勝つ意欲を失った監督の、次にやろうとしていることに選手は信じてついていけるものではない。ワシらは勝つために集まった集団なのだから。
 だから、ワシは監督批判をした。チームは勝つことを目的とした集団だ。その目的がうまくいかないからといって、何の説明もなく、若手にきりかえられたのでは、ベテランたちはたまったものではない。
 あの人は選手たちをボロクソにいう。しかし、選手には妻がいるし、子供がいる。学校で父親がバカ呼ばわりされている時の子供の気持ちを考えたことがあるのだろうか。自分が批判されることには敏感なくせに、他人のことに鈍感なのは、やはり選手の気持ちを理解できない人というしかあるまい。
 指揮官というものは、所詮そういうものかもしれない。しかし、人間関係に血が通っていなければ、いずれそれは破綻を招く。

 ワシはワシの野球でこれまで生きてきたのだし、広岡管理野球はそういうワシを無視しただけなのだ。ただ、ワシが思っていた大監督像とは少し違っていただけなのだ。
 ワシにいわせれば、広岡監督は優秀な側近と強大な組織のバックアップにのった単なる監督でしかなかっただけだ。それまでのワシの広岡監督に対する思い入れが大きかっただけに、底が見えた広岡管理野球とギャップがありすぎたのだ。だから、いついや気がさしたとか、何を機会にといわれでも、メサ、春野のキャンプ、シしスンに入って五月上旬までに、ワシなりに見させていただいた名監督に対して、少しずつ失望と無念さがふくらんでいったといっていい。

      

 「広岡さん、老害という言葉をご存じですか?」――「あぁ、知っているよ、私のような人間のことを言うんだろ?」3年におよぶ取材で明らかになった広岡達朗の栄光と落日。93歳の広岡達朗は何を語るのか――?1978年、ヤクルトスワローズを球団史上初の日本一に導いた広岡達朗。苛烈な「管理野球」で知られる名将は、弱小球団だったスワローズをどう改革し、ライバル巨人や球界最強と称された阪急をも打ち倒す“戦う集団”へと変貌させたのか。そして日本一の翌年、なぜスワローズは崩壊し、広岡は球団を去ることになったのか?ここら辺が全て明かされます。己が信じる正しさを貫き通し、球界に多くの敵を作った広岡とは、いったい何者だったのか?ときに「冷徹な監督」と批判され、現在ではそのコメントがウェブで炎上して「老害」と揶揄されることもある広岡の知られざる素顔とは?93歳になった今、広岡はどのように生き、死のうとしているのか。高齢の広岡への取材を続けるうちに筆者が抱く焦燥感や哀しみも、生々しく記録しました。

 広岡達朗本人をはじめ、スワローズOBの若松勉松岡弘大矢明彦八重樫幸雄杉浦享伊勢孝夫水谷新太郎、日本シリーズで対戦した阪急OBの福本豊山田久志、巨人での後輩にあたる王貞治、そして広岡の長女・祥子さんなど、多くの関係者にインタビューを実施してまとめられた本です。広岡さんは「あんなヤツ(=野村克也)と一緒にしてもらったら困る」と全く評価しておられないのですが、後に同じヤクルトの監督になり黄金時代を築いた野村克也さんは、こんな言葉を語っていました。「金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流。」若松、松岡、水谷、八重樫...と、たくさんの人を残した広岡さんもやはり一流の人でしょう。当時は選手からいくら煙たがられていても、後になって改めて感謝されるというのが理想の指導者でしょう。その証拠に、広岡さんに指導を受けた選手たちが、どれほどたくさん監督となっているかを思い起こして下さい。一番すごいことなんですが、監督時代に指導した選手の中から、後の監督経験者を16人も輩出しているのです。田淵幸一、東尾 修、森 繁和、石毛宏典、渡部久信、工藤公康、辻 発彦、秋山幸二、伊東 勤、田辺徳雄、大久保博元、若松 勉、大矢明彦、尾花高夫、田尾安志、マニエルの16人です。これは史上空前のV9を成し遂げた川上哲治や、知将・野村克也、闘将・星野仙一ですらも成し得なかった偉大な功績です。立派な指導者を育成することも、監督の大きな役割なんです。

インタビューを終えると、広岡さんはいつも決まって同じことを口にしたといいます。「わからないことがあれば、いつでも電話してきなさい。人間はいくつになっても勉強だよ。一生かけて勉強しなさい」 一生かけて勉強を続けている広岡さんの言葉を聞くたびに背筋が伸びる思いがする、と言います。そして、その言葉はどんな時も心地よく耳に飛び込んでくるのです。「人生はいくつになっても勉強だよ」         

 執筆のきっかけは、「90代を迎えた広岡達朗の今を描きたい」という思いでした。1978年、それまで優勝とは無縁だったヤクルトスワローズを、球団創設初となる優勝、日本一に導いた、当時46歳の広岡さんは「名将」と称されました。そして、90代を迎えた今、歯に衣着せぬ彼の発言はしばしば炎上し、「老害」と呼ばれることもあります。「名将と老害」という毀誉褒貶を併せ持つ広岡さんに「ぜひ話を聞きたい」というところから本書は始まりました。3年にわたる広岡さん本人へのロングインタビューはもちろん、1978年のスワローズナイン、そして愛娘の証言を加え、「46歳の広岡、93歳の広岡」を描く試みは、実に刺激的なものでした。1978年の広岡さんがスワローズにもたらしたもの、そして、一般的に「管理野球」と称される彼のマネジメント術は、およそ半世紀が経過する今も新鮮なものでした。そのことは教え子たちの多くが「反発」から始まった指揮官への思いが、次第に「感謝」に変わり、「心酔」へと変化していった姿に見ることができます。一方で、卒寿を過ぎた広岡さんの姿からは、「人が老いていくこと、そして死を迎えること」を否応なく意識させらたと言います。長きにわたって、「広岡達朗」という傑物に話を聞き続けた結晶がこの本です。

 こちらの「問い」が、なかなか伝わりません。通じたとしても、全くちぐはぐな「答え」が返ってくることも多かったと言います。高齢者への取材においては珍しくないことではあるものの、あまりにもその状態が多くなってきました。「問い」と「答え」が噛み合わない取材が続きましたが、それでも辛抱強く質問を重ねていると、あっと驚くようなエピソードが披瀝されたり、当時の心境と現在の心境を客観的に比較した冷静な発言が飛び出したり、ライター冥利に尽きる問答が実現することもありました。それは決して「たびたび」ではなく、「ごく稀に」ではありました。当初は「1978年の広岡達朗」について話を聞いていたものの、気がつけば「2025年の広岡達朗」と対峙する時間が増えていきます。93歳となった彼の口からは意外な言葉が多く聞かれました。「これまでの人生の反省」であり、「老いること、死ぬことへの率直な思い」であり、つまりは「人間・広岡達朗」のリアルな姿でした。こうした話を聞いているうちに、「現在のこの姿をありのままに描きたい」という思いは、ますます強くなっていきました。そして、出た結論が「1978年と2025年、2人の広岡達朗を描こう」というものでした。そうと決めたものの、ずっと「本当にこれでいいのだろうか?」「今ならまだ引き返せるのでは……」と、書き終わるまでずっと悩み通しの日々が続きました。いや、『正しすぎた人』が出版された後でもその思いは続いており、「本当にこれでよかったのだろうか?」という思いは今も消えていません。結果的に、「1978年、46歳の広岡達朗」と、「2025年、93歳の広岡達朗」について、行きつ戻りつしながら両者を描くことにしました。およそ50年前、広岡さんはスワローズを球団創設初となるリーグ制覇、日本一に導きました。その指導の根底にあったのは、「正しいことを正しい方法で続けていれば、必ず望んだ結果が出る」という広岡さんの信念でした。そして、その信念は93歳となった今でも全く変わっていません。広岡さんが自分を律する際に用いる指針は「それは本当に正しいのか、正しくないのか?」という問いかけです。本書には、2人の広岡達朗が描かれています。すなわち、「1978年、46歳」「2025年、93歳」広岡さんです。人は誰でも老いていきます。それに伴って、大切な何かを失うと同時に、新たな何かを得ていきます。広岡さんとのやり取りを通じ、その姿を見ながら、その言葉を聞きながら、著者はそんなことを学んでいました。

 広岡さんは本当に厳しい人。そして決して信念を曲げない人。それは現役時代から一貫してそうだし、90代を迎えた今でもそうです。ヤクルトになる以前は、国鉄だったり、サンケイだったり、親会社がいろいろ替わりました。ヤクルトになってから数年の間は若々しい選手が多かったけど、まだまだ緻密さには欠けていた。親会社がバタバタしていたら、戦力補強も含めて地に足がついた野球は難しいものです。でも、そんなヤクルトのイメージを変えたのが広岡さんだったと思います。

 一言で言えば、“何事も徹底する”ということですね。攻撃なら攻撃、守備なら守備、走塁なら走塁と、とにかく徹底していました。選手たちはそれぞれの考えを持っているものです。でも、広岡さんが監督になってからは、“こうやって戦うんだ”という方針が浸透していたと思います。それはジャイアンツから見ていても感じましたよ。チームの方向性というものが明確になった気がしましたから。

 先輩としてはすごく優しいけれど、プロとしては本当に厳しい人です。今の野球界には広岡さんのような厳しい人はいません。正しいと思えば、その人のためには耳の痛いことでも平気で発言することができる。最近では、そこまで真剣にアドバイスをしてくれる人はいません。我々にとっても本当に貴重な存在です。   (王 貞治)

 王 貞治さんの広岡達朗観が出てきますが(上揭)、まさに広岡達朗の実像そのものをズバリ指摘した言葉でした。また広岡さんは色紙にこう書かれます。

稽古とは一から
習い 十を知り
十より かえる
元の その一   (広岡達朗)

 これは千利休の言葉だそうですが、終生勉強を続けられる広岡さんの姿勢をよく表した言葉だと感じます。いいのはいい。悪いものは悪い。ダメなものはダメ。広岡さんは是々非々の人なのです。最後に、意外な言葉が告白されました。「“やるべきことをやれ”というのは常に言っていた。でも“なぜやるのか”は足りなかった。今ならば、そんな反省がある」 ヤクルトの時も、西武の監督時も優勝(→日本一)させながら、どちらでも選手・幹部から反感を買い、辞めていかざるを得なかったのはこんなところに原因があったのかもしれないなと感じました。♥♥♥

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