真正面から突っ込んでいく

 尊敬する現・JR九州相談役&一般社団法人・九州観光機構会長唐池恒二(からいけこうじ)さんの本は全て読んできました。JR九州のトップとして、鉄道事業の改革や事業の多角化を推進し、300億円もあった赤字を解消するばかりか、同社を東証一部上場へと導いた伝説のトップリーダーです。前作の『ななつ星への道』(PHP出版)で最後とおっしゃっておられましたが、最後の最後に集大成をと、新しい本が出版されました。『夢みる勇気』(リベラル社、2026年)です。夢を描き、夢に手足をつけ、夢が叶ったら、次の夢を描く。その繰り返しが人生を豊かにすることを、自身の数々のエピソードを交えて披瀝しておられます。

 今までの著書の中にも書いてありましたが、ここでも触れられている参考になる話があります。博多・釜山間に高速連絡船を作ることになり(近年、浸水を隠したまま運行していたことが発覚したため船舶事業から撤退することを決定しました)、JR九州船舶事業部が1989年4月に発足しました。そのナンバー2の企画課長に任命された唐池さんが、部長の大嶋良三さんから、教えていただいた人生の指針です。大嶋さんは国鉄時代に、岡山宇野高松を結んでいた宇高連絡船の経営にあたっておられた海運のプロ中のプロです。その尊敬してやまない「海の男」から、航行中の船が嵐に遭遇した時の操船の極意について教えてもらったことがあったそうです。押し寄せる高波に対して、船首を真正面に向けると船は絶対に転覆しません。5万トンのタンカーでも10トンの漁船でも、これは変わらない鉄則です。どんな大きな波が来ても船が正面から向かっていくなら沈没することはありません。ところが、高波に対し、船首を横に向けると、「横波」といって船の横から波がぶつかってくるからこれはもう船がもちません。荒波を怖がって波から逃げようと後ろの方向に船首を向けると、「追い波」と言ってどんな船でも転覆します。どんな最新鋭の機器を積んだ大型船でも「横波」「追い波」に抗する力はないのです。この話を聞いた時、大嶋さんの行動の原点が分かった気がしました。そうなんだ!このことは人生や仕事にも通じることなんだ!難局に直面しても逃げずに真正面から立ち向かうと必ず解決する。嫌なことから逃げたり、やっかいな仕事を直視しなかったり後回しにしたりすると、後で余計に問題が大きくなって取り返しがつかなくなるのです。「難局に直面したときには、逃げずに真正面から立ち向かう。」という教訓を学びたいですね。私も若い頃から、この精神で頑張ってきました。「逃げない!」という哲学ですね。これは生涯使える武器です。唐池社長もこの精神で、赤字が300億円もあったJR九州を黒字化するだけでなく、同社を東証一部上場にまで果たしています。

 私の大好きなシンガーソング・ライターのさだまさしさん(28歳)も、苦難を真正面から受け止めた人でした。父の夢を叶えるために、1981年に、中国の長江を舞台にした映画「長江」を自分の資金で制作、ヒットはしましたが、それ以上に制作費は膨れ上がり、28億円の借金を背負ってしまいました。29歳のさださんが選んだ道は「歌で返す」というものでした。年間100本以上のコンサートを継続し、30年かけて完済します。「関白宣言」「親父の一番長い日」「北の国から」など誰もが知る名曲を多数生み出し、これまで開催したコンサートは通算4700本を超えました(現在4,765回日本記録)。しかし、その大記録の裏には10ケタを超える「借金」という、やむにやまれぬ事情もあったのです。多額の借金を返し、たくさんのスタッフを食わせるためには懸命に働くしかなかったのですね。 

 金利を入れて35億円近い借金は、僕の会社ではなく、僕個人の借金ですから返さざるを得ない。でも、会社を維持し、社員に給料を払い、なおかつ税金も払いながらの返済ですので、かなり厳しかった。10日ごとに8千万円、5千万円、1億5千万円という手形を落とさなければならなかったわけですから…。負債額がわかったとき、破産宣言するよう勧めてくれた人もいました。「そうすればチャラになって楽になるから」と言って。このときは一晩考えましたね。その結果、貸した側の身になって考えてみよう、と。お金に関してはプロの銀行が融資してくれたのは「さだまさしなら返せる」と考えたからに違いない。だったら返せるんじゃないか。ここは“プロの勘”に懸けてみようと思ったんです。返済の過程で二度不渡りを出したことがありました。半年に二度不渡りを出すと銀行と取引停止になるんですけど、僕の場合は数年おいてでしたから会社はつぶれなかった。つぶれなかったことで「このままいけば返せるんじゃないか」と。そうすると勇気がわいてきて、それが「返そう!」というモチベーションになるんです。返済が終わったときは、ある種の脱力感に襲われたし、「ああ、これで返済に追われなくてすむ」と思いましたね。

 借金を返済する過程で感じたり、学んだことはいっぱいあります。ひとつは“人の情け”です。銀行の担当者をはじめおおぜいの人達が僕を助けてくれた。そういう意味では、僕はついていたし、本当に人に恵まれているな、と思ったことが何度もありました。それと、何事も最後の最後までわからない。だから、諦めてはいけないということも学びました。だから、僕は決して投げないですよ。そして何よりも僕のファンであり、コンサートに来てくださる方たちのパワーです。僕が莫大な借金を返済できたのも、前人未到のソロコンサート4千回を達成できたもひとえにファンのみなさんのおかげです。これからは、みなさんに恩返しをしなければいけない。ということは、僕は歌手をやめたくてもやめられないんですよ(笑)。   ―『女性自身』1月21日号

 当時、結婚したばかりの(奥様は島根県・浜田市出身)さださんは、1年以上家に給料は入れていません。同居していたお母さんの蓄えで暮らしていました。会社を解散しようかという話もあったそうですが、責任感の強い性格からか、ここで投げ出してしまえばお金を貸してくれた人に悪い、という思いがまず第一にあったし、その才能ゆえにどこかで「何とかなる」と思ってもいたようです。

 返済には1にも2にも、音楽という本業での稼ぎを充てるしかなかったのです。そして、さださんには、CD(当時はレコード)の売上もさることながら、コンサートへの集客力の高さという強みがありました。実際、借金直後の1982年には、年間162回!それ以降も、年間100本以上のソロコンサートを行うようになりました。もちろん、その合間に、曲づくりやレコーディング、テレビ・ラジオ番組の出演、さらには小説家として執筆作業もこなしながらです。いやはや、もう脱帽するしかありませんね。コンサートの集客のために行った、さださんならではの戦略とは?グレープ時代のヒット曲「精霊流し」「無縁坂」をはじめとして、ソロ歌手転向後も「雨やどり」、「関白宣言」、「道化師のソネット」、「防人の詩」、「秋桜」、そして「風に立つライオン」などなど、錚々たる名曲を生で聞くことができるコンサートは、もちろん魅力的なものです。しかし、そこに胡座をかくことなく、より魅力的に、よりリピーターや新規来場者を増やすために、さださんが行ったこと・・・それは「コンサートのバラエティ化」でした。次も来てくれるリピーターは今の半分。だから次も満員にするためには、その人たちにもう一人ずつ連れてきてもらうという「モットー」に基づいて、とにかく観客に徹底してサービスをします。こんなエピソードがあります。とある芸人さんは若手に対して「さださんのコンサートに行って、話術を勉強して来い」と命じたとのこと。また、さださん自身も「コンサートに来たお客さんから、曲はレコードで聞くから、もっとトークを聞かせてくれって言われちゃいました」というある種の自虐ネタを披露しておられます。これこそが、さだまさしのコンサートに来場者が絶えない理由と言っても過言ではないでしょう。3時間の公演のうち、楽曲演奏はもちろんのこと、合間のトークや、本格的な小噺(中学・高校時代には落研で磨いた)、故郷の思い出、ツアー先でのエピソード、寸劇なども取り入れ、持てるもの全てをお客さんに提供して心から楽しんでもらう。このステージ・トークだけを集めたCDや本まで出ているのは、日本広しといえどもさださんだけでしょう。「会場を満員にするにはどうしたらよいか?」を必死に考える、この姿勢があったからこそ、4000回以上ものコンサートを今まで続けてこられ、ひいては借金完済を実現できたのでしょう。ソロ歌手という言葉だけでは括りきれない、マルチな才能とはこのことです。58歳、およそ30年をかけての借金完済、そして父・雅人さんの死去。2010年、いよいよ、その日がやってきます。さださんは映画『長江』で背負った合計35億円の借金を58歳にして、完済。実に30年近い年月をかけ、凡人ではとうてい不可能なことをやってのけたのです。そして奇しくも、息子の借金完済をこの目で見届けてまもなく、父・雅人さんは静かに天国へと旅立っていきました。決して偶然ではない、何かのおぼしめしがあったのだと、つい思ってしまいたくなりますね。ただ父・雅人さんは生前、さださんに対して一度も礼や労い、侘びや謝意といった言葉を発したことはなかったそうです。

 「ひたすらライブやって一心不乱になって返しました。借金から逃れる気持ちはなかった。たかだかお金のことだから返せるか返せないかでしょう。今思えば、そこまで頑なに返済にこだわったのは、父の夢の後片付けだったからかもしれませんね。父が生きているうちに全額返済できてよかったです。」(さだまさし談)

 さださんは、完済後のインタビューにおいて、「借金を返せたのは、ひとえにファンの皆さんのおかげ。また助けてくれる仲間がいたから」と語ります。そして歌手生活50年以上を経てもなお、そうした皆さんに恩返しをするためにも、まだまだ引退することはできない」借金返済後も、「お客さんに育ててもらったのだから、お客さんに納得してもらえるまで走り続ける」とも宣言しておられます。親子三代にわたるファンも多く、エンターテイメントの世界において、さだまさしというビッグネームは、今後も当分の間、私たちを楽しませ、感動させ続けてくれることでしょう。

 1984年、ロサンゼルスオリンピックで直面した絶体絶命の危機について、山下泰裕(やましたやすひろ)さんが『読売新聞』「時代の証言者」に回想しておられました。2回戦のアルトゥル・シュナーベル選手(西独)との対戦で右ふくらはぎの肉離れという事態に見舞われました。準決勝でローラン・デルコロンボ選手(仏)との対戦で開始早々負傷した右足を狙われ大外刈りを仕掛けられた山下選は外国選手との対戦で初めて「効果」のポイントを奪われてしまいます。「負けるんじゃないか?」そう思って立ち上がったその瞬間、どこからともなく「何だお前は。お前が今まで一生懸命頑張ります、頑張りますと言っていたのはこの程度のものか。お前オリンピックに来て、こんな無様な試合をするために来たのか?」という天の声が聞こえてきます。いや違う、自分が今まで一生懸命頑張ってきたのは、ここで怪我をしてこんな無様な試合をするためじゃない、こんな怪我で負けてたまるか、と心の中で叫びながらすごい目つきをして、グッと向かっていくように相手を見据えていました。そこからはいつもの自分に戻り、合わせ技一本で相手を倒しました。ギリギリの状況の時に出る力こそが、その人の本当の力でしょう。窮地で、冷静に自分を客観視する自分がいたのです。状況を真正面から受け入れ、冷静に戦えるか、同時にそこに自分のやってきたことを全て懸ける集中力があるか、それにはそれだけの覚悟を持って取り組み準備をしてきたかが大きく影響します。そういったギリギリの勝負をしてきたことが、肝が据わるという意味で、その後の人生に生きてきたとおっしゃておられました。

 これらのエピソードから、私たちが学ぶべきことは?「難局に直面したときには、逃げずに真正面から立ち向かう」ことです。♥♥♥

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