高木兼寛

 宮崎県出身の高木兼寛(たかぎかねひろ)さんといっても、一般にはあまり知られていないかもしれまDSCN2330せんね。私は、島根県の津和野高校に三年間勤務していたので、森 鷗外(林太郎(津和野町出身、街の外れには、森鷗外記念館と旧居が公開されています)との関連で、この医師を知ることになります。

 高木兼寛は、海軍医務局副長に就任以来、軍隊内部で流行していた脚気に本格的に取り組みました。その原因はある種の栄養素の欠乏のためではないかと考えた彼は、兵食を分析した結果、炭水化物が多くタンパク質が少ない場合に脚気が発生すると結論し、予防対策として兵食をパンや肉食中心の洋食に変えることを提案しました(栄養説)。海軍は、高木が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気の撲滅に成功したんですね。これに対し日本陸軍は、軍医総監の石黒忠悳が、脚気は細菌が引き起こす感染症である(細菌説)として高木兼寛説を批判し、東大教授緒方正規も「脚気病菌発見」を発表しました(緒方の細菌説はドイツ留学中の北里柴三郎によって否定された)。しかし、陸軍はその後も、石黒忠悳森 林太郎(東京大学医学部出身)が頑なに高木説を否定し続け、明治27年の日清戦争では、食糧を陸軍省医務局が一元管理し全部隊に白米を支給した結果、戦死者453名に対して脚気による死者4、064名を出したのです。その後も、陸軍上層部は脚気「細菌説」を採り続け、10年後の日露戦争では陸軍の被害は、戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にものぼったそうです。その後、ビタミンが発見され、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることがわかりました。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介し、その中で高木兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な業績を紹介しています。高木はこれらの功績により明治21年(1888)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与されました。彼が「ビタミンの父」と称せられるのはこういう訳です。さらに明治38年(1905)に、華族に列せられ男爵の爵位を授けられます(一方の森は華族にはなれず)。人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられています。また、死去した直後に従二位の位と勲一等旭日大綬章が追贈されています。高木が臨床医学を学んだイギリス医学と、東京大学や陸軍など日本の医学界の主流であった研究至上主義のドイツ医学の、いや明治政府全体を二分する勢力の代理戦争的様相を呈していたようです。ここら辺の様子は、坂内 正『鷗外最大の悲劇』(新潮選書)に詳しく出ています。森 鷗外は脚気の予防因子がビタミンBであることが判明し栄養説の正しさが立証された後も、これを受け入れることなく、自説の非を認めることなく1922年に亡くなっています。ここら辺が、私が鷗外を好きになれない理由です。

 高木兼寛は、医師としての功績がよく知られていますが、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所)、政治家(貴族院議員)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家など、さまざまな顔を持つ「マルチ人間」だったようです。

 今回宮崎に行くにあたって、高木兼寛の銅像が「宮崎県総合文化公園」に建っていると聞いたので、どうしても見ておきたかったんです。それが写真の銅像です。DSCN2335 今回の宮崎出張の大きな収穫の一つでした。

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