首大仏

IMG_0067 「首大仏」(くびだいぶつ)とは、湯河原の千歳川のほとりにある福泉寺(ふくせんじ)にある、かつては名古屋城内にあり、戦後この福泉寺に奉納されたという陶製の釈迦像のことです。写真をご覧になって分かるとおり、高さ2メートル以上もあり、とてもインパクトのある大仏で、威風堂々としていますね。ちなみに、この千歳川を挟んで神奈川県と静岡県に分かれるのですが、福泉寺は川を渡った反対側、静岡県に位置しています。先日、西村京太郎先生にお会いに行くタクシーで、運転手さんがぜひこれを見ておくといいよ、と勧めてくださったので、連れて行っていただきました。

 さて、この「首大仏」ですが、エピソードを調べていくIMG_0069と、とても興味深い話があることがわかります。ここで簡単にご紹介しますね。

 「300年以上前、名古屋藩主の徳川義直の大名行列が通った時、町人の娘が、家の前で行水中だった耳の遠い母親をたらいごと、家にひっぱりこんだ。義直は、娘の忠義な行動に感激し、この娘に御殿奉公を命じた。彼女は、義直の子供・光友をはらんだが、「自分は卑しい身分ゆえ、股間から産むことはおそれおおくてできません」と言い、断腹して、子供を出産、絶命した。この娘を供養するために大仏が作られたらしい。」と、何とも痛ましいというか、壮絶な内容ですが、よくよく調べてみると、おおよその話が見えてきました。

 まず、尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である徳川義直は、正室からの子供に恵まれませんでした。さきほど述べた側室から子を授かりました。この側室が法号「歓喜院」と呼ばれる女性で、本名をお尉(じょう)のお方、あるいは乾(いぬい)のお方と呼ばれる女性です。このお尉のお方が住んでいたところは 、当時の大森村(だいしんむら)、今の愛知県名古屋市守山区でした。お尉のお方は光友を1625年(寛永2年7月29日)に生み、江戸で亡くなったのは1634年(寛永11年2月12日)で、法号が「歓喜院」となりました。光友は亡くなった生母の恩を生涯忘れず、1661年(寛文元年)に大森寺(だいしんじ)を建立しました。ということですから、出産時に絶命したというのはちょっと違うのかもしれません。しかし、徳川光友が9歳という、幼少期に亡くなったのは事実のようです。この光友は、徳川義直唯一の男子で、大変可愛がられて育ったようで、藩の財政難が起こるほどに、寺院を建立したり、整備をしたりしたようです。その中の一つが、母を奉った大森寺だったのです。名古屋城に安置されているときには、胴体部分もあったようなのですが、果たして、首大仏の真実やいかに…。運転手さんによれば、胴体部分は奈良にあるとのことでした。

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