炭鉱のカナリア

カナリアのイラスト

 最近も、坂本龍一さんが、アーティストとは「炭鉱のカナリア」である、これからも「言いたいことは言わせてもらう」と発言しておられました(朝日新聞』2019年1月9日付)。身の回りの環境に関して、何気ない日常の雨音に、森に海に氷山に、極めて深遠な地球の「音」を求めて耳を研ぎ澄ます表現者・坂本龍一さんに、強い感動を覚えます。今日の話題は、この「炭鉱のカナリア」です。

 「炭鉱のカナリア」とは、危険が迫っていることを知らせてくれる前兆のことです。その昔、炭鉱の坑道のどこかにガスだまりがあるかないかを調べる機械のない時代、炭鉱夫たちは生きたカナリアの籠を下げて坑道に入りました。有毒ガスが発生していれば、賑やかに騒ぐカナリアが先に死にます。人間はそこから引き返せば生命が助かる、というわけです。ここから、危険の前兆を示すものを「炭鉱のカナリア」と呼ぶようになりました。実際に、「地下鉄サリン事件」の強制捜査がオウム真理教に対して行われた時、捜査員はカナリアを携行したそうです。カナリアは、炭鉱夫に毒ガスの存在を知らせる警報の役目を果たしていたのです。およそ30年前まで、炭鉱夫たちはガラスの容器の中に入れたカナリアと共に地下へ潜って作業をしていました。地下の鉱床では、火事や爆発のような事故があった場合、一酸化炭素のような致死性ガスが発生することがあります。この無色無臭のガスは、人間にもカナリアにも致命的ですが、とくにカナリアのほうがその影響を受けやすく、人間よりも早くはっきりとその影響が現われるのです。だから、炭鉱夫に毒ガスの存在を知らせる警報の役目を果たすというわけですね。こんな籠だったようです。(画像はhttp://www.heleyhero.co.ukより借用しました)

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 空気中に一酸化炭素が存在すれば、カナリアの元気がなくなってきます。止まり木の上で目に見えて体がぐらつくようになり、ついにはバタンと落ちてしまう。カナリアの意識がなくなったら、容器の扉を閉めて、ボンベのバルブを開け、酸素を送り込んで、カナリアを蘇生させるという道具です。炭鉱夫たちはカナリアのおかげで危険なエリアから避難することができたのです。

 この「炭鉱のカナリア」を、ハッキリ明言して、音楽活動・歌作りをしてきたのが、大好きなさだまさしさんでした。常に「時代の反対側にカードをはらないと」と、意識して歌作りをする強いこだわりがありました。さださん曰く、「『炭鉱のカナリア』という言葉があって永(六輔)さんもよくおっしゃっていたけど、僕ら発信者は『炭鉱のカナリア』じゃないといけない。つまり、”ピーチクパーチク”さえずるのが僕らの仕事。毒ガスがあったら、先に歌をやめて死んじゃう。カナリアは死んじゃうけど、炭鉱でガスが溜まってたら鉱夫さんたちは助かる。おかしいことを『おかしい』と言うと、めった打ちされるから、そうじゃない方法で、僕は歌謡曲として歌ってきた」と。『もう愛の唄なんて詠えない』(ダイヤモンド社、2007年)において、さださんは「僕ら表現者は「炭鉱のカナリア」で居なければならない」と明言しておられます。関白宣言」などはその代表的な歌でしたね。1979年にリリースされ、約160万枚の売り上げを記録した曲です。「“亭主関白”が化石化している時代に、この歌をぶつけるたのは何なんですか?」という疑問をぶつけられた際に、さださんは、「あの頃から『核家族』とか『ニューファミリー』という言葉が出てきて、『親と同居せず』と言いはじめた。そうすると、夫婦2人きりになって片方が亡くなったら、最後は一人きりで死ぬんだよ? その覚悟がありますか? という問いかけが家族の歌だった」と語りました。さださんにとっては、今さら僕らの歳になって『孤独死』『無縁死』が話題になると、『何言ってるの。あの時言ったじゃない?』」と、思い描いていた通りの現実が迫ってきたわけです。時代の反対側にカードをはる」さださんの矜持です。「女性蔑視」などと、世間からは大バッシングを受けましたが、彼は信念を持って歌い続けました。そしてこれは「関白失脚」というアンサー・ソングへと 受け継がれていきます。

僕は歌う勇気がある限り、たとえみんなに届かなくても声を限りに「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を歌おうと思う。それには自分自身が「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことだ。何故なら自分が正面切って自分の生命と向き合っていなければその楽しさや苦しさを表現できるはずなどないからだ。(p.134)

    「世の中がおかしい」と思ったら「世の中が変だ!」と恐れずに口に出す勇気が、「炭鉱のカナリア」です。最近では、「戦争」をテーマにした「遙かなるクリスマス」という歌が、まさに衝撃的な「炭鉱のカナリア」ソングでした。イラク戦争に端を発して、未来の子供たちを今の大人たちはどう守れるのか、と歌いました。さすがにこの詩を読んだときには、頭をガツーンと殴られたような気がしたものです。人間のどろどろとした部分をえぐり出すような、強烈な詩でした(特に二番以降)。同名の本までさださんは書いて、この詩を解説をしておられます。ぜひ聞いてみてください。

 私自身も「炭鉱のカナリア」を自認していて、おかしなことには「おかしい」と発言していますが、なかなか耳を傾ける人がいませんね。最近の北高の英語の授業を見ていて、「これでは力がつかない!」(「ハズキルーペ」っぽく〔笑〕)と叫び続けています。❤❤❤

 

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