渡部昇一先生のエピソード(31)~一番になる

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 尊敬する故・渡部昇一先生のエピソードを書き溜めてきましたが、31回目となりました。まとめて読みたい、というご要望をいただきましたので、このブログの右下にある「カテゴリー」「渡部昇一先生のエピソード」という項目を作りました。ここをクリックしていただくと、今までの(1)~(30)を全てお読みいただくことができます。

 思い起こせば、学生時代に大ベストセラー『知的生活の方法』(講談社現代新書)を読んだのが最初の出会いでした。以来単行本だけでなく雑誌に寄稿された文章まで片っ端から読み漁りました。私が熱狂的ファンであることを知っておられた知り合いから、松江に講演に来られるから会わせてあげる、との有り難い申し出をいただき、「ホテル一畑」の控え室で初めてお会いすることができました。緊張する中、握手していただいたことは忘れることができません。以来事ある度にお教えをいただき、『ライトハウス英和辞典』(研究社)の推薦文まで書いていただきました。私の定年退職時には心温まるねぎらいのお言葉までいただきました。感謝あるのみです。

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 故・渡部昇一(わたなべしょういち)先生のご実家(山形県)は、ごくごく小さい田舎町の小間物や化粧品を扱うお店でした。母親が自分の工夫で造った婦人用の鬢付け油を、付近の農村や漁村の間で一定の販路を持っていたので、お店は「あぶらや」と呼ばれていました。農家の長男で家を継がなかった父親は、経済観念に乏しい高等遊牧民的気質の人でした。敗戦から二年ぐらいした時、五十歳を超えてから、偶然の機会で父親が定職に就きます。生まれて初めて人並みの給料をもらうようになったのです。先生が高校卒業する前後の数年間だけ、渡部家の経済状態が急に少しだけ良くなりました。おかげで、大学受験をできることになったのです。上智大学に入学一年目は100パーセント親からの仕送りだけで生活し、夏からは奨学金をもらいました。日本育英会(月2,000円)の他に、鶴岡の風間家克念社育英会(年間30,000円)と旧藩主酒井家と酒田の本間家による荘内育英会(二ヶ月ごとに1,400円)でした。

 上智大学に進学した故・渡部昇一先生には、どうしても一番にならなければいけない事情がありました。大学一年生の夏休みで7月に帰省したら、父親が職を失っていたのです。84年の生涯の中で、まともな給料を受け取った期間は約二年半だけです。これは全くの偶然で、神様が渡部先生を大学に入れるために、父親に短期間の定職を与えてくれたとしか思えない、と回想しておられました。今後は親から授業料を送ってもらうメドが全く立たないのです。授業料はすでに一年分納めてありますが、来年の分の見通しは全く立ちません。目の前が真っ暗になりました。「知の扉」を開けてもらい、さあここからという時に、そこから退去してしまうことだけは絶対に嫌でした。そうすると、どう考えてみても可能な道は一つだけしか見えていませんでした。それは特待生になり、翌年の授業料を免除してもらうことです。その確実な道は、英文科で首席になることです。時には一学科から特待生が二人ぐらい出ることはあるのですが、それでは当てになりません。一番であれば大丈夫です。今のようにアルバイトの仕事が簡単に見つかる時代でもありませんでしたから、どうしても授業料免除の特待生にならなければなりませんでした。ところが一番になろうとすると、どうしても他の同級生の成績が気になるのです。自分より優れた人間に後れを取った場合、まず嫉妬心が先に立ち、相手の失敗を願うようなことになりかねません。他人の成績が気になるということは、考えてみると、いかにも卑小で自他共に恥ずかしいことのように思われたのです。このように、一番を目指すことは、渡部先生にとっては心理的に辛いものがありました。ここで先生は考えます。「そうしないで必ず一番になる道はないのか?」と。そこで、一番になろうとするのではなく、全部の科目で100点を取ることだけを目的とすればいいのではないか、という考えに思い当たります。これならライバルの失敗を期待するようなマイナスの姿勢を超越することができ、自らのペースで道を拓くことが可能です。他の人のことは考えずに、講義に全力集中して、全ての科目に100点を取ることを目指せば、卑しい思いから逃れることができるのでした。まずライバルのことは頭からはずす。100点を取れば、必ず特待生になることができます。そこで、断乎それを実行しようと決心されたのでした。当時の上智大学は授業は午前中にみっちり詰まっており、午後一時以降は授業はありませんでした。厳しい食料事情のために午後にアルバイトをしている学生がたくさんいました。しかし渡部先生はアルバイトは一切せずに、全部を勉強時間に充てておられました。

 それでまず、毎朝早く起きて5時45分に洗面所に行って水をかぶり、水で目を覚ましてから勉強をしました。全ての授業で最前列で教授のすぐ前の席を取ります。他の学生の存在を気にしないで講義に集中するためでです。先生の言うことは一言漏らさず聞いてノートを取りました。そしてその日の講義は寮に帰ったら何よりも丁寧に読み返し、分からないところがないかどうかをチェックし、もしあったら次の時間か、あるいは教授控え室に行って質問する。講義で教わることは何から何まで徹底的にマスターして、学期の終わるころにはその科目については教師と対等か、もしくはそれ以上の知識を身につけ、一科目残らず満点を取ることを目指す。そして試験になった時に、どのような問題でも正確に答えられるようにする。これを卒業するまで厳格に自分に課されたのです。おかげで一年生の通信簿では全科目100点かそれに近い点数を取ることができ、二年生からは特待生になることができました。事実、大学四年間の渡部先生の成績は、全教科の平均点が90点以上でした。二番の学生の平均点が80点台でしたから、全20科目を総合すると200点ほどの差ができていました。競争心を排除するために、ただひたすら講義に集中して100点を求めた結果がこれでした。我ながらよくやった」と回想しておられます。いつも100点を取ろうと頑張っていた先生は、傍目には「点取り虫」のように見えていたかもしれませんが、そのおかげで、嫉妬心や競争心にとらわれることなく、他の人の成績を気にかけることなく勉強に集中することができました。ライバルを嫉妬するよりは、良い刺激として受け止め、どこであろうと、今いるその場所で頑張る、それが人生に後悔しないためには非常に重要なことです。

 渡部先生上智大学に入学した時は、新制大学に切り替わる年で、スタートしたばかりで文部省の指示も理想主義的なところがありました。つまりは教養課程です。教養科目は新しい時代の大学教育の特徴といった感じでした。文科の学生でも、数学、物理学、生物学、化学などの自然科学の科目も必修単位だったのです。他の大学はかなり弾力的に運用していたようですが、上智大学では生真面目にそれを文科の学生に強制しました。まだ学校がまだ小さくて塾のような雰囲気でしたから、全て必修だったのです。渡部先生は来年も大学に特待生として残れるようにと、必死の覚悟で全て100点を取る決心で勉強しておられます。動機は授業料を免除してもらうという金銭的なものでしたが、高校までの生活では経験したことのない真剣さで、自然科学の授業にも没頭しました。おかげでその後は授業料を払うこと無く無事卒業することができましたが、それとは別の恩恵もあったのです。それは専門課程ではないにせよ、大学教養レベルの自然科学の諸科目の試験を受け、正確に理解しているという保証を得たために、その後の人生においても、自然科学関係の話題にも興味を持ち続けることができたのでした。渡部先生のご専門は英語学で、そこに安住すればそれで人生を送れたはずですが、諸学問に対する興味は年齢とともに広がっておられます。こういう訳で、渡部先生の生涯お書きになられた多くの著作は、専門の英語学だけでなく、幅広い分野に及ぶことになったのです。♥♥♥

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