「方谷駅」

 岡山で偶然乗ったタクシーの運転手さんが本当に話し好きの人で、日本で唯一人名の付けられた駅「方谷駅」の話を聞かせてくださいました。どこへ行くにも、特急「やくも」伯備線をしょっちゅう利用している私は、時々列車待ちで停車をする「方谷」(ほうこく)という駅は知っていましたが、これが人の名前だとは知りませんでした。そこで、ちょっと調べてみました。

 「方谷駅」は、高梁市中井町西方の高梁川左岸にあるJR伯備線(倉敷~伯耆大山、138.4km)の駅です。備中高梁駅から北へ3つ目の駅です。高梁川沿いにひっそりとたたずむ小さな駅で、駅の周辺には人家が数軒あるのみです。「備中松山藩幕末の学者・山田方谷(やまだほうこく)にちなんでつけられた国鉄唯一といわれる人名の駅。」と記載されています。駅名は、中井村の「中井」と付けられる予定でしたが、駅用地の半分ホーム向かい側の崖下は山田方谷の旧宅跡であり、方谷が子弟を教えた「長瀬塾」の跡でもあったので、地元の人々はぜひ方谷先生の名を後世に残したい、と猛運動を始めます。ところが、ときの鉄道省(現・国土交通省)は人名をつけた駅は前例がないといって、どうしても受け付けてくれません。当初は、駅名を村名から取って「中井」あるいは「西方」とするつもりでした。住民は困ったところで一計を案じます。中井村に西方という地名がある。そこで、『方谷先生は“西方の谷”を号にされたのだ。人名ではなく、土地の名だ』と、無理にこじつけ、方谷に私淑した当時の小川平吉鉄道大臣に話を持ち込み、住民たちのあまりの熱意に鉄道省も折れて、いまの駅名がついた、というエピソードがあります。

 山田方谷(1805年~1877年)は、江戸時代末期から明治時代初期の漢学者、備中松山藩士です。学者として藩に仕えていましたが、藩主板倉勝静(1823年~1889年)のもとで藩政改革を断行し、大きな成功をおさめました。勝静が幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与しました。 また、藩校有終館や方谷自身の私塾、明治以降には備前の閑谷精舎などで多くの子弟を教え、備中松山藩を支えた人々を育てています。越後長岡藩の河井継之助(1827年~1868年)のように、他藩から来遊する者も数多くありました。方谷自身は明治維新を境に教育に専念し、世に出ることを拒みましたが、その思想、手法、人材は次世代の大きな財産として残されました。現在のお金で300億円もの借金を抱え、財政破綻寸前であった備中松山藩が、わずか7年で300億円の財を蓄えるまでになった山田方谷の改革。彼の断じた改革の手法の中身については、コチラに詳しく出ています。勉強になりました。そんな山田方谷の偉業を讃える数々の事業が行われています。チラシはコチラ ♥♥♥

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