『緑の街』

 25年ぶりに映画『緑の街』(1998年)を見ました。映画『いつか どこかで』(1992年)で初監督を務めた小田和正(おだかずまさ)さんが、その時の実体験を基に、再びメガホンをとった監督作品第二弾です。前作同様、脚本・音楽も全て小田さんが担当しました。出演俳優陣は、渡部篤郎、中島ひろ子、尾藤イサオ、河相我聞、林泰文、角替和枝、大友康平、大江千里、武田鉄矢、泉谷しげる、津川雅彦ら、実に豪華な顔ぶれです。私は今から25年前に、この映画を松江市・殿町の島根県民会館で楽しんで見た記憶があります。

 小田さんはソロになってから、驚愕の270万枚を売り上げ、当時のシングル売り上げ新記録を作った「ラブストーリーは突然に「東京ラブストーリー」主題歌)で大もうけし、数年先と考えていた念願の映画制作の資金ができます。1992年には自ら脚本、監督、音楽を手がけた『いつかどこかで』を全国公開しましたが、映画評論家からはこぞって酷評され強烈なバッシングを受けました。「才能の無い者に映画を撮らせてはいけない」とまで、ひどい言われ方をしました。悔しさで体が震えたといいます。自分の人格まで全否定されました。おまえは何者だっていう感じで酷評されましたが、それに対して言い訳できる材料もないし。それでも何とか早く挽回しなきゃあ、どこが間違っていたのか、ということで2作目を作りました。意地で第2作目『緑の街』(彼の自伝でもあります)を完成させ、前作のような映画配給会社による映画館では上映せずに、全国264カ所にも及ぶ公民館地元の小ホールでの自主上映で全国を回ったのは、小田さんらしい反骨精神でした。上映機材を持ち込んで上映したのは、前作の音響に不満があったためです。拍手喝采を送りながら島根県民会館に出かけたのを思い出します。今回改めて見直してみて、当時は気づかなかったことにいっぱい思い当たるふしがあり、面白かったです。

映画「緑の街」

 売れっ子ミュージシャンの夏目草介が、日本武道館で行われた全国ツアーの最終日に突然、「今度、映画を作りますのでよろしくお願いします」と、映画製作を宣言します。事務所の社長やスタッフたちは猛反対しますが、すでに脚本も書き上げていた夏目はかまわずに製作準備に着手。やがて、スタッフたちも新しい世界に挑戦しようとする夏目に心を動かされ、映画製作へと乗り出していきます。しかし、現場は素人監督にはあまり協力的ではありませんでした。その後、彼は様々な困難にぶちあたることになります。スタッフとの衝突、エンディングに納得のいかない主演女優との軋轢、撮影日程や予算の逼迫、スポンサーやタイアップも降りてしまい、ついには映画は暗礁に乗り上げてしまいます。失意の草介に、助監督の真下が、「監督は映画を作るという大きな船に乗り込んできた。自分たちは期待していたけど、初めからそれにこたえる義務なんてなかった。操縦の仕方なんてわからなくてもいい。そんなことは最初から期待していない。それは僕らがやればいいこと。大切なのは監督が船を出したということだけど、その船は誰もが出せるわけではない。船を出した以上、僕らを目的地に連れて行ってくれ」と叱咤する場面は感動的でもありました。映画を完成させたいという気持ちを、もう一度ストレートにスタッフに説得し、ラストシーンも描き直し、見事に映画を完成させたのでした。

 映画冒頭に出てくる映画作りを宣言するコンサート・シーンは、日本武道館で撮影されたものですが、出演者の一人・大友康平率いるハウンドドッグのコンサートを途中中断して行われたものです。照明担当スタッフの泉谷しげるさんの出演は、彼と同姓同名の映画照明担当者が実在することにちなんでのものでした。『緑の街』は、公開から25年もの年月が経っていてもまったく色褪せていない映画だと思います。25年経った今、小田さんにとってこの映画はどんな存在となっていますか?と問われ、小田さんは

 1本目の後、皆んなボクの実際にあった話をおもしろ可笑しく見たいんじゃないかと勝手に考えて1本目の時のドタバタを映画にしました。1本目がイヤと言うくらい叩かれたので必死でした。映画のスタッフというのは、みなさんなかなか個性の強い人たちで、そういう人たちが骨身を削ってつきあってくれるわけです。彼らにしたら、こいつ、何もないな、みたいなことだったんだろうね。それがつらかった。自分は何もないとは思ってないんだけど、しかしスタッフに応えられるだけの器量はない。それで現場がだんだんつらくなって…。戦いだったですね。

 小田さんがプロゴルファーの青木 功さんのキャディをやったドキュメンタリー「キャディ」をテレビ番組で放映をしたら、ものすごい反響がありました。始めのうちは余裕綽々だった小田さんが、いざプレーが始まると失敗の連続で、青木さんに何度も叱られるというシーンが流れると、大きな反響が寄せられました。小田さんが等身大の自分をさらけ出し、体当たりの挑戦をした、自分が実際に経験したドタバタぶりや臨場感のあることが、お客さんには届くことを体感したのです。そこで再び映画作りに臨んだ小田さんの物語は、歌手である主人公が映画を作る、すなわち、一作目の制作現場の出来事を取り込むというアイデアでした。普通は自分が失敗したこととか、叱られたこと、恥ずかしいことは隠したいと思うものですが、それをあえて全てさらけ出したのがこの映画です。実に小田さんらしい。

  『緑の街』は通常の劇場公開とは異なり、シネマ・ツアーという形で全国を回って上映されました。映画館のない街に住む人々に、映画を観てもらう、という目的があったのだと思いますが、当時としては非常に斬新な試みでしたし、今でも機材を運んで全国で上映するという取り組みはなかなか見ないことだと思います。当時、どんな思いでこの方式を選択したのでしょうか?

 一作目を映画館でみた時、音に拘った積もりだったのに全く思うように行かなくてガッカリしました。で、次やるならライブのシステムを会場に持ちこんでやろうとあの形になりました。 ちょうど映画の上映システムが変わって行こうとする境目でした。なかなかの冒険でした。

 キャスティングは紆余曲折あったけれど、最終的には自分のイメージを優先させてもらいました。クランクインを半年遅らせて、脚本に時間をかけた分それぞれの役のイメージがハッキリしてました。渡部くんに初めて会った時突然「ボクこの役出来ますよ」と言ってくれてビックリしました。良く覚えています。何しろ配給会社を通さない自主上映形態だから、尾藤さんや津川さんなどベテランを始めみんなが快く出演してくれてホントに嬉しかった。

 この映画と同時に放送されたメイキング映像(『LIFE-SIZE 1997』)を見ると、この映画の製作途中で様々なトラブルがあったことがわかります。❤❤❤

 トラブルはいっぱいあったと思うんだけれど思い出せない。思い出すのは楽しかったことばかり。撮影が始まってしばらくして林くんが「監督、良い映画になりそうですね」と言ってくれた。みんなが映画に前のめりになった。嬉しかった。仮タイトルにしていた「緑の街」に反対のスタッフがかなりいたようなので公募してみたら「映画」とか「ヨーイ、スタート!」などが出て来た。ヒット作なら「ヨー イ、スタート!」でもいいけれど、名作として残るなら「緑の街」だな、と押し切らせてもらった。

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