岩國哲人さん亡くなる

 元島根県出雲市長で民主党副代表を務めた岩國哲人(いわくに・てつんど)さんが自宅のある米国・シカゴの病院で現地時間10月6日、お亡くなりになりました。87歳でした。

 1989年に米国の大手証券会社幹部から出雲市長へ転身。大学三大駅伝の一つ、現在の「出雲駅伝」の誘致に尽力したり、木造の「出雲ドーム」建設や、自動販売機規制などユニークな施策に取り組み、「アイデア市長」として注目されました。1991年には当時熊本県知事だった細川護熙元首相と共著『鄙(ひな)の論理』で地方の時代を提唱し、ベストセラーになりました。市長2期目だった1995年、東京都知事選に立候補したが敗北。1996年に新進党から衆院初当選し、4期務めました。民主党では「次の内閣」政治改革担当相などを歴任。2009年の衆院選に出馬せず引退をし、翌年自民党の政務調査会顧問に就きました。2013年に「旭日重光章」を受章しておられます。

 世界最大の投資銀行メリル・リンチ副社長の椅子を蹴って、年収10分の1の島根県出雲市市長に転身した岩國哲人(いわくにてつんど)さん。岩國さんは島根県立出雲高校から東大へ進まれた秀才で、高校時代からその成績は抜きんでていた、と聞いたことがあります。当時は、経済の世界では強い人だけを相手にすればよい、社会的に恵まれない力の弱い人に対して何かをしなければという気持ちは全くなかった、と回想しておられます。役所の仕事もバカにしていた、と正直に告白しておられました。そんな岩國さんが、出雲市の市長(1989―1995年)になってから、ショッピングセンターに土・日の行政サービスコーナーを開設」「国内最大(当時)の木造ドームの建設」「学校は木で作る」など、数々の斬新な施策で全国から注目されるようになり、日本で一番活気のある町、との評価を得ました。恵まれない人、体の弱い人、人生の途中で幸せを見失った人たちのために、幸せと生き甲斐を作り出す職場だ、ということに気づかれたのです。職員は仕事をやり遂げた喜び、市民が喜んでくれるという喜びを知りました。「人を幸せにする幸せ」「人に喜ばれる喜び」ですね。

 市の中でどこの会社が一番いいか、と聞かれた時に、「市役所が最も優れている」と言われるくらいであってほしい。「市役所を見習え、あの仕事ぶりを見習わないといかん」と民間企業から言ってもらえるようになりたい。…(中略)…出雲市の職員を日本最強の市政集団にするという考えを私は持っています。最近、出雲市の職員はあちこちの会合で、自分が納得するまで尋ねて、「食いついてくる」という評判です。やりたいことをやり、それがすぐ形となって現れる。各職員が仕事の面白さに生き生きとし始めたのでしょう。  ―細川護煕・岩國哲人『鄙の論理』(光文社、1991年)

 岩國さんは、出雲高校から、東大・法学部を出られたあと、日興證券に入社、ニューヨーク支店、ロンドン支店などを経て、パリ支店長。同社を退社後、米国の投資銀行モルガン・スタンレー社メリル・リンチ・キャピタルマーケット米国本社上席副社長に就任されました。そんな中1989年周りから乞われ、出雲市長選挙に出馬し、初当選しました。市長在任中は、「行政は最大のサービス産業」「小さな役所、大きなサービス」という持論をもとに、足元の市民サービスに力を注ぎ、ショッピングセンター内の行政の土・日サービスコーナーや樹医制度の創設、総合福祉カードの導入、日本最大の木造ドームの建設、全国に先駆けてゴミの分別収集やゴミ袋の有料化を実施など、次々と時代を先取りした新施策を実現し全国から注目されました。出雲市はわずか2年で、トヨタ自動車ソニーなどと並び、日本で最も優れた企業として、JMA(日本能率協会)マーケティング最優秀賞を受賞しています。出雲市という一地方自治体の名前を全国に知られる市にし、従来の地方行政に風穴をあけた功績は大でした。

    地元の人々は、岩國さんの経歴から、企業を致して出雲市の活性化を期待していたみたいですが、ご自身はロンドンやパリ、ニューヨークなどの大都市を見てきた中で、これからは開発の時代ではなく、環境の時代になっていくだろうと感じ取っておられました。価値観が変わってきたのです。しかし当時はバブルの時代で、日本が開発の絶頂期でしたから、市民の反対もかなりありました。開発に反対というと大袈裟に聞こえるかもしれないですが、とにかく市民の認識を変えていかなくてはなりませんでした。環境がいいということはイコール田舎だという認識ですね。東京が先頭を走っていて、出雲市はビリを走っている。これは開発が遅れているということです。でも、ここで発想の転換をすれば、開発がおくれていることイコール環境がいいということです。残されている環境を守る、21世紀は環境の時代、その時、出雲市は先頭を走っている、21世紀のリーダーは出雲市です、と岩國さんは訴えました。

 岩國さんは出雲高校の生徒だった頃、ものすごい秀才で、高校1年生の時に、すでに3年生の内容を終えて、教科書などは学校の机の中に置いて帰っていたという伝説が伝わっています。数Ⅲの赤チャートを1年生の時に終わっていたとか。私がまだ若い頃、以前勤めていた島根県立松江南高等学校に、講演に来ていただいたことがあります。そこで語られた中で、印象に残っている言葉があります。それは「誇り」「情熱」ということでした。岩國さんは、1週間で「これだけのことをやれ」と言われたら、3日でやりました。1週間で「10だけのことをやれ」と言われたら、15のことをやった。1週間で10だけのことしかできなかったときには、今まで誰もやったことのないやりかたでやってみせた、と言います。ここで学ぶべき教訓は次の三つ:①言われたよりも速くやる、②言われたより多くやる、③誰もがやったことのない方法でやってみせる。これは、難しいけれど、難しいからこそ挑戦のし甲斐があるのだと、当時語っておられました。そして、若い時には、一生懸命というより、一所懸命で頑張りなさい、と松江南高生たちにエールを送られました。もうずいぶん前の話ですが、今でも肝に銘じて、参考にさせていただいている生き方です。

 出雲市が日本一輝いている街であった6年間には(今は?)、岩國哲人という優れたリーダーが先頭を走っていました。わが松江北高が公立高校進学成績日本一という称号を3年間保持していた時期には(今ではこのことを知る先生もほとんどいません)、鞁嶋弘明(かわしまひろあき)という校長先生がおられました。組織が光り輝く時には必ず立派なリーダーがいるものです。♥♥♥

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