加納莞蕾

▲『山陰中央新報』10月26日付

 第二次世界大戦後、戦犯としてフィリピンで収容されていた日本人の戦犯釈放運動に力を尽くした島根県安来市出身の画家、加納莞蕾(かのうかんらい、1904―1977)さんが、当時のフィリピンのキリノ大統領ガルシア大統領ローマ教皇など関係者に送った300通を超える英語の嘆願書の日本語訳が出版されました。莞蕾がバインダーに整理して残していた書簡集「加納辰夫文書」は、1949年6月3日付のエルピディオ・キリノ大統領宛から、1959年12月17日付のカルロス・ガルシア大統領宛まで、本人が出した手紙の控えと返信を併せて334通。ロシアによるウクライナ侵略が続き、イスラエルの中東情勢も緊迫する中、平和の実現に向けた強い思いを感じ取ってもらいたいものです。

 加納莞蕾さんは、現在の安来市広瀬町(私の故郷です)に生まれ、東京の本郷洋画研究所で学び、戦時中は従軍画家として中国に派遣され、後に戦争記録映画を制作しました。島根県出身の知人の元海軍軍人が戦犯としてフィリピンのマニラの軍事法廷で裁かれ、死刑判決を受けたことをきっかけに、当時のフィリピン大統領に、旧日本兵らの釈放を訴える英文の嘆願書を送るなど、戦犯の釈放運動に力を尽くしたことで知られています。「許しがたきを許すという奇跡によってのみ、人類に恒久平和をもたらす」と、現地に収監されていた日本人戦犯の助命を嘆願し続けました。嘆願書は、地元、安来市の中学校の英語教師だった知人の協力を得て英訳され、大統領の恩赦で105人の日本兵ら全員の釈放(1953年7月)が実現して今年で70年となることから、日本語訳と資料集が加納美術館より出版されました。『邦訳 加納辰夫嘆願書『加納辰夫文書』より』(A5判616頁、加納美術振興財団、7,700円)です。私は『英文書簡画像集』(498頁)とのセット(10,000円)で購入しました。

▲『読売新聞』10月31日付 翻訳された私の恩師三島房夫先生

▲嘆願書&返信が写真画像で全て収められている

 日本語訳されたのは、釈放に向けた運動を始めた1949年からの11年間に、大統領やローマ教皇などにあてた嘆願書300通余りで、生前の莞蕾と交流があった安来市在住の元高校の英語教諭、三島房夫先生(83歳)、私の高校時代の恩師が邦訳なさいました。先生は1972年頃、島根県立安来高校で英語の教員をなさっておられ、地域の催しで莞蕾の作品に出会ったことをきっかけにアトリエを訪問。書棚に並んだキリノ大統領らへの嘆願書を収めたファイルに目が留まります。「こんな田舎になぜフィリピン大統領の親書があるのか?」交流を続ける中で活動を教えてもらいます。莞蕾は、日本兵に妻子の命を奪われながらも嘆願によって戦犯を釈放したキリノ大統領の業績が世間に伝わらないことを悩んでいたと言います。三島先生莞蕾に翻訳書の出版を提案し、同意を得て作業に取りかかられます。私も学生時代先生からこの話をうかがっていました。しかし1977年に莞蕾がお亡くなりになったために、作業は頓挫してしまいました。そして加納美術振興財団からの依頼を受け、戦犯釈放70周年となった今年、半世紀の歳月を経て出版となったのです。莞蕾先生との約束があり、世に出したかった。人生の全てを注いだ運動はに何かを感じ、どう発展させるかを考えてほしい」三島先生。

 三島先生は、「許すことができないものを許すよう訴えた莞蕾さんと、大統領が下した決断は、世界平和実現への大きな教訓となる」と話しておられます。戦時中日本兵に妻子を殺されていたにもかかわらず、「国民に憎悪を受け継がせない」と、1953年、日本人戦犯105人の赦免を決断しました。「『日本人が憎いが、子どもたちの隣人となる日本人を憎むことがあってはならない』というキリノ大統領の思いを理解してもらいたい」とも話します。日本語訳は300冊印刷され、嘆願書の原文などを収蔵している「安来市加納美術館」の名誉館長で、加納莞蕾の娘の佳代子さんは、ロシアによるウクライナ侵攻が続き、中東情勢も緊迫するなか、「莞蕾の平和への強い願いを感じ取ってほしい」「一人でも多くの人に読んで頂いて平和への思いがつながっていく、それが次世代につながることを心から望んでいます」と話しておられます。

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 高校時代に英語を教えていただいた三島房夫(みしまふさお)先生には、学生時代からご自宅によく押しかけては、奥様に美味しいものをごちそうになったり、洋書を貸していただいたり、いろいろなためになるお話をうかがったりで、ずいぶんお世話になったものです。大学に入学したばかりの頃、三島先生のご自宅の書斎にあった『夏目漱石全集』がどうしても欲しい、と無茶を言ったら、大学の成績が全部“優”だったらプレゼントしてやる」とおっしゃってくださって、よしそれならと、必死で勉強頑張って約束を果したら、本当に新しい全集をプレゼントに家まで持って来てくださいました。むさぼり読んだものです。私の家には生徒たち(在校生・卒業生)がよく遊びに訪れてくれるんですが、自分がそういう経験をしているので、御恩返しのつもりも少しはあるんです。今では生徒が先生の家にお邪魔することなど、めっきりなくなってしまいましたね。

 私が大学生のときには、どうせろくなものは食べていないだろうから…」と言って、高校時代に教えていただいた先生方が(6・7人おられました)定期的に食事会にご招待くださっていました。お前は会費はいらないから、大学でどんなことを勉強しているのかを話せ、それが会費だ」と言ってくださって、いつも学生には食べることのできないような美味しい料理をごちそうになっていました。

 尊敬する渡部昇一先生のご著書を読むと、高校時代の佐藤順太先生という恩師がしょっちゅう登場しますね。

 先生と生徒の関係も、授業をする者と受ける者という関係だけでは、どうしても深いつながりができないですね。先生は「給料分だけ教えとけばいいんだ」、また生徒は「先生はオレたちの月謝で生活しているんだ」みたいなギスギスした関係になって、人間的に豊かな感性が養いにくくなる。恩を返そうと思う心が、自分自身の心にハリを与えていくわけです。その点、昔は先生と生徒の関係が恩で結ばれることが多かったんです。どうしてかというと、生徒はだいたい先生の家に住み込ませてもらっているか、養ってもらっていることが多かったからなんです。

 私の場合もそうですね。やはり、食わしてもらったという意識に非常に左右されている。住み込みじゃなかったけど、高校時代の恩師・佐藤順太先生の家に、高校卒業して大学生になってからも、のべつまくなし行ってましたね。夏休みで田舎へ帰ったときなんか、自分の家にいる晩よりも佐藤先生のところにいるときのほうが多かった。そうすると、食事をご馳走になるときもあれば、お茶やお菓子を出してくれることもあるわけです。これが非常に有り難かったですね。しょちゅう押しかけては何かご馳走になったり、プライベートにお世話になったりすると、やはり独特の感情がわいてくるものなんです。そして、その恩を何らかの形で返したいと思い始める。  ―渡部昇一『報われる努力 無駄になる努力』pp.142-144(2001年 青春出版、下線は八幡)

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