生徒と教師の人間関係

     先々週で18年間勤めた松江北高での最後の授業が終わりました。私の授業の目標は「大学に合格すること」や「分かりやすい授業」ではありませんでした。「あ~、英語の勉強って面白いな」「ワクワク、ドキドキ」を伝えて、「もっと勉強してみよう!」と励まして心に火を付ける授業こそが、私の目標なんです。生徒一人でも、二人でもそういう気持ちを体験してもらえる授業こそが、私にとって「良い授業」でした。毎日の授業を私は、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」をモットーにしてやってきました。これは作家・井上ひさしさんの言葉です。私は日頃そんな指導を、いくら嫌われても厳しくやっておりました。

 2月10日(土)の私のオンライン+対面講演の最後に、「生徒と教師の人間関係」が変わってきたことを述べました。最近の私の切なる実感でした。時間の関係でさらっとしか触れる事ができませんでしたので、ここでもう一度取り上げておきたいと思います。

 安来高校時代に放火で校舎が全焼した時の生徒会長を務めていたこともあって、先生方にずいぶん可愛がっていただきました。高校を卒業して大学生になったときに(学年で国立大学に合格したのは私を含めてたった二人でした)、「お前はどうせろくなものは食べていないだろうから…」と言って、担任の先生を含め高校時代に教えていただいた先生方が(6・7人おられました)定期的に食事会にご招待くださっていました。お前は会費はいらないから、大学でどんなことを勉強しているのかを話せ、それが会費だ」と言ってくださって、いつも学生には食べることのできないような美味しい料理をごちそうになっていました。有り難いことでした。

 高校1年生の時から英語を教えていただいた大谷静夫先生(おおたにしずお)米子・皆生温泉のご自宅には、住んでおりました広瀬町から1時間ほどバスに乗ってよくお邪魔して本を借りていたのですが(夢野久作エド・マクベイン(Ed McBain)ロアルド・ダール(Roald Dahl)を教えていただいたのも先生です)、時々料亭に美味しいものを食べに連れていってもらったりもしました。本当に有り難かったとですね。今私もよく教え子たちと食事やお茶に行く機会があるのですが、これも自分がそうやってご馳走してもらった当時の思い出が残っているからかもしれませんね。

DSC02117 その大谷先生が退職された後、突然お亡くなりになった時には、英語の本は全部八幡に送ること」と、奥様にご遺言なさったそうで、奥様からご連絡をいただき、有り難く全部大きなダンボール箱で何箱も大量に送っていただきました。当時は津和野高校の教員住宅暮らしで、部屋が狭く開けて並べることもできず、そのまま段ボールに眠ったままだったんですが、松江に帰って自宅を新築し、特注の書庫を作ったときには、一角にコーナーを作り記念プレートを添えて、先生を偲びながら全部並べさせていただきました。私の大切な大切な宝物です。大谷先生東京大学・文学部を卒業された先生で、英書を読むスピードが桁外れに速いんです。どうやったらそんなに早く読めるんですか、といつも先生に食い下がっていたものです。毎日、米子から松江に当時国鉄の列車で通勤(松江商業高校)しておられて、途中の荒島から乗ってくる私のために、満員の先頭車両でいつも座席を取っておいてくださいました。毎朝先生の隣に座って、面白い本の話を聞くのが何よりの楽しみだったものです(ダールの短編はおもしろいぞ等々)。その奥様がお亡くなりになったと息子さんからご連絡をいただきました。ご挨拶に行こう、行こうと思っていただけに悔いが残ります。

 高校時代に英語を教えていただいた三島房夫(みしまふさお)先生のお宅にもよく押しかけては(生徒会執行部のみんなで押しかけたのが最初でした)、奥様に美味しいものをごちそうになったり、本を貸していただいたり、いろいろなためになるお話をうかがったりで、ずいぶんお世話になったものです。今では生徒が先生の家にお邪魔することなど、めっきりなくなってしまいましたね。大学に入学したばかりの頃、三島先生のご自宅の書斎にあった「夏目漱石全集」がどうしても欲しい、と無茶を言ったら、「大学の成績が全部“優”だったらプレゼントしてやる」とおっしゃってくださって、よしそれならと、必死で勉強を頑張って約束を果したら、本当に新しい全集をプレゼントに自宅まで持って来てくださいました。むさぼり読んだものです。三島先生は、第二次世界大戦後、戦犯としてフィリピンで収容されていた日本人の戦犯釈放運動に力を尽くした島根県安来市出身の画家、加納莞蕾(かのうかんらい、1904―1977)さんが、当時のフィリピンのキリノ大統領ガルシア大統領ローマ教皇など関係者に送った300通を超える英語の嘆願書の翻訳に、当時から取り組んでおられました。その長年の成果である日本語訳が昨年末に出版されました。莞蕾がバインダーに整理して残していた書簡集「加納辰夫文書」は、1949年6月3日付のエルピディオ・キリノ大統領宛から、1959年12月17日付のカルロス・ガルシア大統領宛まで、本人が出した手紙の控えと返信を併せて334通。「許しがたきを許すという奇跡によってのみ、人類に恒久平和をもたらす」、これに動かされて1953年、日本人戦犯105人の赦免が決断されたのでした。三島先生「『日本人が憎いが、子どもたちの隣人となる日本人を憎むことがあってはならない』というキリノ大統領の思いを理解してもらいたい」とも話しておられます。

 高校時代、上でご紹介したお二人の先生に英語を教えていただいたことが、私の人生の一番の恵まれた宝物でした。感謝しかありません。

 私の家には生徒(在校生・卒業生)がよく遊びに訪れてくれるんですが、自分がそういう経験をしているので、御恩返しのつもりも少しはあるんです。松江北高に赴任してきた頃には、放課後、英語スピーチの指導をしていたところ、学校が閉まるので、場所を自宅に移して夜中まで練習したこともありました(この生徒は優勝しました)。倉吉で開催される高校生イベントの研究発表をまとめるために、私の家で泊まり込みの合宿をして議論を重ねたこともありましたっけ(男子はうちに泊まり、女子は夜帰宅)。ESS部の顧問を長く務めましたが、クリスマスやハロウィンなどのイベント時には、ALTと部員達が私の家にやって来てパーティーで盛り上がりました(写真上)。時代の流れでしょうか。最近ではこうした生徒との人間関係は少なくなってきました(社会情勢もあるのでしょうね)。私は高校時代、大学時代と教えて貰った先生のご自宅へ何度も通い楽しく過ごさせてもらったことが、今の自分のDNAになっているような気がします。

 尊敬する故・渡部昇一先生のご著書を読むと、高校時代の佐藤順太先生という恩師がしょっちゅう登場しますね。

 先生と生徒の関係も、授業をする者と受ける者という関係だけでは、どうしても深いつながりができないですね。先生は「給料分だけ教えとけばいいんだ」、また生徒は「先生はオレたちの月謝で生活しているんだ」みたいなギスギスした関係になって、人間的に豊かな感性が養いにくくなる。恩を返そうと思う心が、自分自身の心にハリを与えていくわけです。その点、昔は先生と生徒の関係が恩で結ばれることが多かったんです。どうしてかというと、生徒はだいたい先生の家に住み込ませてもらっているか、養ってもらっていることが多かったからなんです。
 私の場合もそうですね。やはり、食わしてもらったという意識に非常に左右されている。住み込みじゃなかったけど、高校時代の恩師・佐藤順太先生の家に、高校卒業して大学生になってからも、のべつまくなし行ってましたね。夏休みで田舎へ帰ったときなんか、自分の家にいる晩よりも佐藤先生のところにいるときのほうが多かった。そうすると、食事をご馳走になるときもあれば、お茶やお菓子を出してくれることもあるわけです。これが非常に有り難かったですね。しょちゅう押しかけては何かご馳走になったり、プライベートにお世話になったりすると、やはり独特の感情がわいてくるものなんです。そして、その恩を何らかの形で返したいと思い始める。    

 ―渡部昇一『報われる努力 無駄になる努力』pp.142-144(2001年 青春出版、下線は八幡)

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