岩谷直治さん

▲入って左側が「岩谷会館」

 私が以前4年間勤務した、島根県立大田高等学校の校門を入ったところに、校舎に隣接して「岩谷会館」という卒業生会館があります。これはマルヰガス」を創業した同校卒業生の岩谷直治(いわたになおじ)さんの寄贈による2階建ての建物です。当時、職員会議・部活動の合宿などに利用していましたが、森山祐司(もりやまゆうじ)校長の英断で、生徒の自習室に改装されました。「疲れない椅子」を入れて、生徒たちの学習の便を図りました。これは、飛躍的に進学成績が伸びた要因の一つでした。

大田農業学校(現島根県立大田高等学校)卒業。

神戸の運送会社で勤務した後、ガスの製造・販売を行う「岩谷直治商店」を
昭和5年(1930)に創業。
昭和20年(1945)年に株式会社岩谷産業に改組、以後40年間に渡り
社長を務めた。
昭和28年(1953)、50歳の時に家庭用プロパンガスの全国販売をわ
が国で初めて開始。
昭和44年(1969)にはガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型
ガスコンロを日本初の市販化。
半生をかけてガス器具や供給機器、安全器具の開発・普及にも心血を注ぎ、
「プロパンガスの父」と称される。
昭和55年(1980)8月には大阪府堺市にLPG輸入基地を完成させ、
翌年2月からサウジアラビアからのLPガスの直輸入を開始し、輸入から
国内販売までの垂直統合を完成。
今日、イワタニ・マルヰガスグループを290万のLPガス需要家を有す
る日本最強のLPガス集団に育て上げた。生活全般から素材関連まで事業
欲は幅広く、岩谷を生活総合産業企業へと一代で築き上げた。また、次世
代燃料としての水素に注目し国内初の液体水素製造装置を造るなど先見性
もあった。

 「マルヰプロパン」岩谷産業の創業者・岩谷直治さんが、昭和28年にわが国で初めて家庭用LPガスの販売をした会社です。まだ薪や炭でご飯を炊いていた時代で、当時は「マルヰプロパン??どんなパンですか?」と聞く人がいたくらいです。岩谷さんは若い頃は大八車に溶接棒を積んで売り歩いています。岩谷さんが出張中には、奥さんが乳母車に溶接棒を積んでお得意様のところに届けていたといいます。顧客志向、信用第一という商魂に支えられて岩谷さんの事業は順調に伸びていきました。

 この岩谷さんの哲学は、「大田農業学校」(現大田高校)時代、東京から来た若い担任の先生の教えに基づいています。新進気鋭の大橋清蔵先生は、当時最先端のダーウィンの進化論「適者生存」の話をしました。岩谷さんはこれに強い感銘を受け、丁稚奉公に出て日夜の仕事に励みながら思ったことは、「世の中に必要なものは栄える」ということでした。世の中が求めているもの、欲しているもの、必要と感じているものに全力で応えようとすれば、きっと世の中は喜びを持って受け入れてくれるはずだ、というものです。今でもこれは岩谷産業の企業理念・コンセプト「世の中に必要な人間となれ、世の中に必要なものこそ栄える」となって引き継がれています。創業者・岩谷直治さんの事業哲学を表現したもので、ダーウィンの「進化論」をヒントに、人も企業も狩猟型よりも息の長い農耕型の努力が必要だという思いが込められており、「世の中に必要とされるもの」が互いに扶け合うことに価値の基準を置き、社会や生活者の満足・顧客の満足を追い続けようというものです。昭和28年春、岩谷産業はLPガスの販売に踏み切りました。わが国では初めてのことだけに大冒険でした。家庭の奥様たちにとっては、「台所革命」です。一家の家庭団らんの笑顔が浮かんできますね。「世の中に必要なものは栄える」です。今でいう顧客志向にテッした商売と、命に代えても信用第一という商魂に支えられて、岩谷の事業は伸びていきました。

 大田高校に勤めていた当時は、岩谷さんの名前くらいは知っていましたが、氏の人となり・哲学のことは詳しく知りませんでした。清水榮一『中村天風 運命を拓く65の言葉』(KKロングセラーズ、2016年4月)を読んでいたら出てきて、メモしたものです。今回は岩谷直治さんの人生を振り返ってみたいと思います。

 岩谷直治さんは、1903年、島根県安濃郡長久村(現・大田市)に父・邦吉郎と母・ミサの五男として誕生しました。父・邦吉郎は、豪農の総支配人を務め、信州へ出かけ養蚕・製糸を学び、横浜へ生糸の販売に出向くなど、知見が豊かで厳格な教育熱心な親でした。直治さんは、父から「謙虚であれ、その姿勢を持ち続けることが大切だ」「どんな人でもおまえより何かいいものを持っている。死ぬまで他人に教えてもらうのだ」と、事あるごとに言われて育ちました。母・ミサは、ふた回りも年が離れ、三男二女がいる邦吉郎に嫁ぎ、二男三女に恵まれ、夫と10人の子供の面倒を見ながら家事一切を一人でこなす努力の人でした。ある日、直治さんは従弟から「選挙権がない貧乏人」とバカにされ大げんかをしましたが、母から「人をさげすむことは恥ずかしいこと。相手の立場に立って考えることが正しいことですよ」と諭されました。後年、直治さんは「子どものころは分からなかったが、成長とともに両親の教えが分かり、自分の生きざまから会社の経営にまで影響を及ぼした」と語っています。

 直治さんは成績優秀でしたが、父が病に伏し家計が苦しくなったために、自宅から徒歩で通える安濃郡立農業学校(島根県立大田高等学校)へ入学しました。辞書も買えず修学旅行も不参加だった直治さんの事情を把握していた大橋先生から「農学校というのは、自然と農業でもって人間を作る学校である。必ずしも農業をやらなくてもよい。世の中に出て、その人の得意の方向に向かって努力すれば必ず成功する。胸を張って一生懸命おやりなさい」と励まされました。大橋先生の教えを受けた直治さんは、進化論の適者を「世の中に必要なもの」に置き換えて、「世の中に必要な企業は生き残れる」と常に言い続け、そこから編み出した企業理念「世の中に必要な人間となれ 世の中に必要なものこそ栄える」は現在でも会社活動の礎として受け継がれています。

 農学校を卒業した15歳の直治さんは、商人を目指して神戸の楫野海陸運送店へ奉公に出ましたが、奉公の初日、夜行列車の長旅の疲れもあって寝過ごしてしまいました。周りの無言のムチが身にこたえた直治さんは翌日から5時前に起床し、皆が起き出す前に掃除を終えるように努めました。5時前起床は終生変わらず、これは“同じ失敗を二度と繰り返さない”と肝に銘じたもので、会社を起こしてからは同じ失敗をした社員に厳しく戒める姿もありました。当初、直治さんは夜学に通っていましたが、授業中に仕事の疲れから襲ってくる眠気に勝てず通学を諦めました。そんな直治さんに、主人は「これをやると神戸高商を出たのと同じ実力がつく」と、通常の仕事以外に経済日誌を付けるという日課を与えました。それは、為替・株式・生糸・毛糸・綿糸・金・銀・銅など、日本をはじめ世界の相場を書き留めるものでした。それは数字一文字の誤記でも叱られるので睡魔との戦いでもありました。しかし、毎晩コツコツと一人きりで経済日誌を付けたおかげで商品や為替の動きを体得できたことは、その後の会社経営に大いに役立ちました。直治さんは、奉公先での失敗や体験からも“人のやらないことをやる”ことを学びとりました。

 1952年、講演で「イタリアではプロパンガスをボンベに詰めて家庭用の燃料として使用している」ということを知った直治さんは、かまどの煮炊きに苦労している母を思い浮かべました。「主婦をススや煙から解放したい。これこそ自分がやりたかった事業である」という信念で、「金がないのなら酸素ボンベも何もかも売り払って資金を作れ」と檄を飛ばし、50歳にして不退転の決意でプロパンガス事業を始めました。当初は、プロパンガスの便利さを浸透させるためにキャラバン隊を組んで全国を行脚するなど苦労の連続でした。直治さんは「やり出したからにはガスを切らさない、安全にお届けする」という基本方針のもと、ローリー、タンク貨車、コースタルタンカーを導入し、全国規模の輸送網を整備していきました。そして夢であった輸入権の許可を通産省(現 経済産業省)に申し出たところ、輸入基地と専用タンカーを持つことや安定したソースの確保などの条件を示されました。「無謀だ」「資金の目途が立たない」と反対の声が多くありましたが、「この計画を実現させなければイワタニの明日はない」と、これらの条件を10年以上の歳月をかけてクリアし、他社に先駆けて輸入から消費先までの一貫供給体制を構築しました。直治さんはプロパンガスの普及に邁進し、奥様たちの、続いて子どもたちの一家団欒の笑顔を実現することにより、台所の燃料革命を起こした功績から “プロパンの父”と呼ばれるようになりました。イワタニは、MaruiGasのブランドで全国320万のご家庭にお届けしています。今もトップシェアを占めています。

 岩谷直治さんは、生まれ育った島根県大田市を思う気持ちは人一倍でした。例えば、1956年から母校の長久小学校に本を毎年寄付し、これは「岩谷文庫」と名付けられました。1966年には島根県に財団法人岩谷育英会を設立し、1973年には母校の島根県立大田高等学校(卒業時は大田農学校)に図書館を寄付するなど、直治さんの故郷を強く思う気持ちを表しています。1973年、直治さんは古希を迎えたのを機に「社会に役立つことをやろう」と思い立ちました。持っていた自社株と現金合わせて約30億円を投じて、財団法人岩谷直治記念財団を設立。科学技術研究と国際留学生への助成を通じて、人と社会に寄与しています。直治さんは、父から「金は諸刃の剣だ。使い方を間違うと自分が傷つく」と教えられました。この教えは、会社を興してから口癖となった「儲け過ぎてはいけない」に反映され、世の中へお返しするという気持ちを終生強く持ち続けました。

 2005年、取締役名誉会長・岩谷直治さんは満102歳で亡くなりました。生涯現役を全うした秘訣は「克己心(おのれにかつ)」に伺えます。直治さんは健康に人一倍気を遣い、若い頃から酒・たばこの誘惑に負けませんでした。そして、22時就寝、毎朝5時前起床、起床後30分は自己流の体操、般若心経を唱えるなどを日課にしていました。これを終生続けることは並大抵のことでなく、まさしく己に勝ったといえます。その上に好奇心が旺盛で、父から教えられた「死ぬまで他人に教えを乞え」を一つの生き方として貫き、素直に学び続けたところに岩谷直治らしさが表れています。対談された評論家の草柳大蔵氏は、「岩谷直治さんは、学校歴は浅いが、学歴は長い。学歴は学びの歴史であって、『何を学んだか』が重要です。人間は、親教・師教・世教を受けて育ち、仕事をし、家庭を作っている。その過程で人格的に非凡と平凡に大別されるのだが、岩谷直治さんは面白いことに非凡でも平凡でもないのである。凡の尺度を超えた『否凡』の人である」と評されました。直治さん自らも、87歳で受けた「私の履歴書」(日本経済新聞社)の取材にて、「実社会が学校であり、仕事を通じて出会った人すべてが先生であり、若い頃から見てきた産業、企業の盛衰が教科書だった。早く実社会に放り出された分だけ、人より長く学ぶことが出来たのかもしれない」と、人生を振り返っていました。1985年に勲二等瑞宝章を授与されました。♥♥♥

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