梓 林太郎亡くなる!

 作家の梓林太郎(あずさりんたろう=本名林隆司〈はやし・たかし〉)さんが1月27日、老衰でお亡くなりになりました。92歳でした。尊敬する西村京太郎先生が二年前にお亡くなりになって以来、私の大好きな推理小説作家で作品をずいぶん読んでいるんですが、朝刊に小さくその訃報が載っただけで、実に淋しい扱いでした。

 長野県下伊那郡上郷村(現:飯田市)生まれ。中央アルプスに連なる山村にあった母の実家では、家業の農家の手伝いなどで毎日のように山に入っていました。進学のため18歳で上郷を離れましたが、本格的に山登りを始めたのは東京に出てからです。激動の昭和に、営業マン、貿易会社、調査会社、経営コンサルタント会社など様々な職業を転々として、1980年、短編「九月の渓(たに)で」で、「小説宝石エンタテインメント小説大賞」を受賞してデビューしました。趣味の登山経験を生かした山岳ミステリーに定評があります。旅行作家・茶屋次郎が各地の明媚な河川を訪れて難事件を解決する「名川シリーズ」は、TVドラマ化(橋爪 功主演)もされて人気を博しました。他に、長野県警刑事「道原伝吉」松平 健主演でTV化)、山岳救助隊員「紫門一鬼」髙嶋政宏主演でTV化)、元警視庁刑事下町探偵「小仏次郎」などの人気シリーズで知られています。山岳ミステリーと旅情ミステリーを中心に、200冊以上の著作を手がけられました。

 さんは作家デビューするまでの20年間、巨人・松本清張さんがお書きになる社会の不審な出来事やゆがみなどを調査する仕事をされておられました。そのことを『小倉関門海峡殺人事件』(カッパノベルス、2020年)の中で触れておられます。松本清張の人柄がよく分かる貴重な文章です(この中に出てくるAという人物が梓林太郎さんです。下線は八幡)。

 清張さんと交流のあった現代の作家が、松本清張を回想して書いた本を道原は読んだことがあった。Aというその人は作家になる前、清張さんに頼まれて、ある組織や、過去の事件を調べたり、小説のヒントを提供していた。月のうち何度かは杉並区の自宅を訪ねていた。慣れてくると清張さんには横暴な一面があることが分かったという。清張さんは、夜八時ごろから仕事をはじめ、朝の四時ごろまでを執筆にあてていた。書いているうちにペンがとまることがある。専門的な名称や、社会の組織構造などについて不明な点につきあたるのだ。それはものを書く者のだれもが経験することなのだが、清張さんはそこを飛ばしたり、いい加減なつくりごとでごまかしたりができない人で、時間をかまわずAに電話を掛けた。その電話はたいてい午前二時。『あんた、眠てたかね』ときいたという。

 それと清張さんには信じられないような一種のクセがあった。Aを自宅に呼びつけるのはたいてい午前十一時だった。約束どおりに訪ねると、二回から下りてきた清張さんは、玄関に立っているAに、『きょうはなんの用かね』と尋ねた

 約束した日時に訪問すると玄関先で、『……なんの用か』と清張さんからいわれた人はAだけではなかったようだ。清張さんが亡くなると、新聞や雑誌はゆかりのあった人から氏についての思い出を特集したが、そのなかに、何日も前に電話で約束した日時に訪問すると、『そんな約束をした憶えはない』と、玄関の上がり口でいわれたというのがあった。

 清張さんは約束を忘れてしまうのか、メモを失くしてしまうのか、いずれにしろ、一種のクセを持った方だったようだ。Aはこの清張さんを、『創作に集中するあまり、人とのやりとりが多少粗雑になるのでは』と書いていたし、おもしろい一文があったのを道原は思い出した。『慣れてくると清張さんは、人使いがあらく、横暴な一面があった。私は相手が高名作家であるのを忘れて、いい争いをしたこともあった。そういう日は、冷たい石でも嚙んだ気がして帰宅したものだが、書棚から「鬼畜」を取り出して読み返した。その小説を読むとなぜか苛々が治まり、「この小説を書いた人なのだから」と、とがっていた気がまるくなるのだった』記念館の壁のあちこちに、清張さんの姿の写真が飾られていた。風格があって絵になる人でもあった。

 私は大好きだった故・西村京太郎先生への松本清張さんのひどい仕打ちを伺っていたので、松本清張という人は好きになれませんでした(⇒詳しくはコチラをご覧ください)。さんのこの文章を読んでも一癖のある人物であることが分かります。

 ずっとのち、はからずも私は清張さんと知り合うことになり、二、三回、小さな諍いを起こした。多忙をきわめていたからか、清張さんにはいくぶん身勝手なところがあった。その点に私は分を忘れて腹を立てたのである。浜田山のお宅の玄関先から追い出されたこともあった。

 清張さんには時折、身勝手、と受け取れる面があった。中年から作家となった清張さんは、その遅れを取り戻すかのように、目ざましい多作ぶりを示した。「時間が惜しい」常にこの気持ちに背中を押されていたような気がする。したがって作品に没頭する。仕事への集中のあまり、他人への配慮や宛ての都合を忘れているのではないか、と思われることが何度かあった。深更の午前二時に電話をくださったのもそのひとつではなかろうか。

 作家として頂点にのぼりつめた清張さんには、ときに傲慢な一面をあらわすことがあった。

 さんにとって、強い影響を受け、深い思い出のある人の筆頭が松本清張さんであったことは間違いありません。「文章が似ている」と言われたこともあります。二人の結びつきについては、梓林太郎『回想・松本清張 私だけが知る巨人の素顔』(祥伝社文庫、平成21年)に詳しく出ています。今この本を読んでいるんですが、実に面白い。20年間身近で清張さんを見てこられた人のエピソードだけに信憑性があります。さらには、この本はさんの自伝にもなっており、作家デビューする前の極貧生活、涙ぐましいほどの苦労が細かく描かれています。♥♥♥   

カテゴリー: 日々の日記 パーマリンク

コメントを残す