バットとボールの値段

 「すべての経済的意思決定が厳密に合理的であるとは限らない」という理論を提唱した心理学者・行動経済学者のプリンストン大学・ダニエル・カーネマン名誉教授が、2024年3月27日に90歳で亡くなりました。ダニエル・カーネマンは、2002年に「ノーベル経済学賞」を受賞しました。当時のアメリカ心理学会は「心理学が科学と認められた」といったプレスリリースをしています。彼が証明した意思決定にかかわるバイアス(先入観や偏見)は、「愚かな人間の問題」ではなく「普通の人間の性向」であることが公に認められたのです。人間の知的活動には「ファスト」(直感)「スロー」(熟慮)があるとします。「ファスト」は、直感や経験に基づいて、日常生活で大半の判断を下しています。例えば物の距離感や音の方角の感知など、自動車の運転をする際に働くものです。「スロー」は、発動には集中力が必要とされます。例えば、たくさんの文字の中から必要な情報だけを抜き出す、聞こえてきた言葉が何語かを聞き分ける、といった働きです。合理的で「考える葦(あし)」のはずの人の意思決定の大半は実は「ファスト」に委ねられています。その方がエネルギーを使わず効率的なだけでなく、「おおむね正しい」のです。が「時には決定的に間違っている」のです。その間違いを「スロー」がチェックできればいいのですが、人間の注意力は有限なので簡単になくなってしまうのです。カーネマンはそれを揶揄して「スローは怠け者だ」と言います。

 「ファスト」でも専門家が長年の訓練と経験で得た「直感」は別です。ただし、専門的直感が意味を持つのは一定の規則性のある事象に限られ、株などの予測ではあまり役に立ちません。将棋の藤井聡太八冠の鋭い直感を考えてみるといいでしょう。直感の間違いは気づきにくいものです。例えば次のような有名な問題を考えてください。

 バットとボールは合わせて1ドル10セントで、バットはボールより1ドル高い。ではボールはいくらでしょう?

 当然10セントだ!とひらめいた方、残念ながら間違っています。なんとなく直感でいくとそうなるのですが、だとすれば1ドル高いバットは1ドル10セントで合計1ドル20セントになるからです。「こんな簡単な問題、何言っているの?」と思うかもしれません。しかし実際の調査ではハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、プリンストン大学という超エリート大学の学生の50%以上が直感的な答えを出した、つまり間違ったというのです。

簡単な問題でも、間違ってしまうことがある(写真/Shutterstock)

 何が問題かと言えば、ちょっと検算すればすぐ間違いだと分かるのにしないという事実です。「スロー」を少しだけ発動させればよいのですが、「簡単」と思う問題に対して私たちはそれをしないで「ファスト」に任せることが多いのです。そして、間違っていることにも気づかないのです。

 こうして心理学の視点から実験と研究を進め、確立したのが行動経済学です。当初経済学界では異端扱いされました。なぜ10万円失うと、10万円を得る喜びの2倍の苦痛を感じるのか?「人間は合理的で理にかなった判断をする」という経済学の前提では説明できません。心理や感情を経済分析に応用した成果は高く評価されるようになり、経済学の考え方を大きく変えることになります。

 もう少し例を見てみましょう。以下の2つのりんごジュースなら、どちらを選びますか?

A. パッケージに「果汁90%以上」と書かれた商品
B.「添加物10%以下」と書かれた商品

 どちらも言っていることは同じです。しかし、多くの人が速い思考の段階でAの商品を選ぶのではないでしょうか。というのも、一般的に「果汁はいいもの」「添加物は悪いもの」という刷り込みがあるため、字面の印象だけで直感的にAを選びがちになるからです。これは「フレーミング効果」と呼ばれ、宣伝広告ではおなじみのテクニックですね。

 アウトレットモールなどに行くと、「商品70%off!」などという大幅な値引き札が付いていますよね。例えば元値が2万円の靴が70%offなら6,000円。その視覚的な印象だけで得をしたような気になって、ついつい予算オーバーの買い物をしてしまった経験はありませんか?これは「アンカリング効果」と呼ばれ、元々の基準(アンカー)になる数字を示した上で、それより上や下の数字を提示すると、印象をコントロールしやすくなるというトリックです。これに踊らされないためには、遅い思考を働かせて、「本当に値段に見合うクオリティか」「お得感を抜きにしても商品を魅力的に感じるか」どうかを吟味する必要があります。♥♥♥

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