ハーリー・レイス

 自民党が大惨敗を喫した今回の衆議院総選挙戦で、プロレス大好きの野田立憲民主党代表が石破自民党総理を「ハーリー・レイス」に喩えました。「堂々とチョップを胸で受け止めてくれるハーリー・レイスだと思っていたら、今は、リングに上がるや、ガウンも脱がないままサーベルを手に殴りかかってきたタイガー・ジェット・シンみたいになっちゃった。悶絶し苦渋の決断なのだろうが、本来の彼ではない。だからこそこちらはリングのど真ん中で、逆エビ固めであぶくを吹かせ、タップさせたい」そしてその目論見通りになりました。やはりリーダーの言っていることとやっていることが違っていたら誰も信用することはないのですね(⇒「言行不一致」コチラです)。

 ハーリー・レイスは、NWA世界ヘビー級王座を8度獲得した米国のレジェンド・レスラーで、日本でも“美獣”の異名でジャイアント馬場さんらと激闘を展開し人気を博しました。レイスは、1943年4月11日、米国ミズリー州出身。15歳でプロレスラーとしてデビューし、NWA、AWAなどの団体で活躍。73年5月にドリー・ファンク・ジュニアを破り、当時世界最高峰とうたわれたNWA世界ヘビー級王座を奪取しました。強さと風格を持ち合わせ、「ミスタープロレス」「ミスターNWA」「美獣」と呼ばれた名レスラーです。肺ガンによる合併症のために、2019年8月1日に亡くなりました。76歳でした。お亡くなりになった時に、プロレス専門誌『Gスピリッツ』54号において、未公開インタビューが取り上げられていますので、それを参考にして彼の人となりをまとめてみようと思います。私の「プロレス愛」を感じていただけることでしょう。

 レイスは1943年4月11日、ミズーリ州メアリーズビル生まれ。6人兄弟で,両親は農業で生計を立てていました。子どもの頃から肉体労働に従事していたので、レスリングに必要な基礎体力は自然に養われていきました。15歳中学生の頃、校内で売られた喧嘩を買って、何人もの生徒を相手にケガを負わせ、校長がレイス少年を一方的に責めたので、「じゃあ、もう学校に来ない。それでいいですね」と啖呵を切って退学しました。勉強は好きでなく、早くプロレスラーになりたかったので、停学処分を無条件で受け入れました。なぜか両親も特に反対することはありませんでした。腕っぷしが自慢で喧嘩が強く、15歳でカーニバル・レスラーとしてプロデビューしたのですから、半端ではありません。プロレスラーではなくカーニバルレスラーとしてです。これは腕自慢の素人をリングに上げて真剣勝負するレスラーなのですが、彼がプロレスラーとして長年活躍できたのも、カーニバルレスラーとして身につけた喧嘩が強い、という芯があったお陰です。NWA設立者のサム・マソニックに可愛がられ、ドリー&テリー兄弟の父親ドリー・ファンク・シニアに師事。フロリダ州タンパの大物プロモーター、エディー・グラハムの下で修行を積み、プロレスの最高峰NWA世界王座を8度も戴冠しています。1970年代前半から日米のマットを股にかけて大暴れした名物男です。表の顔は、プロレス界のキング。裏の顔は「あいつに睨まれたら食っていけない」と周囲から怖れられる、プロレス・ビジネス界におけるボスでした。肉体的にもタフで、あるレスラーが証言していましたが、試合で血だるまになり、そのダメージを心配していたら、試合後の酒場で額に絆創膏を貼ってお酒を飲んでいたといいます。

 1960年代前半にプロレス入りし、世界チャンピオンへの登竜門であったミズーリ州ヘビー級チャンピオンから、1973年5月に当時米国で最高権威であった「NWA世界ヘビー級王座」を獲得します(相手はドリー・ファンク・ジュニアでインディアン・デスロックによる決着。あのジャンボ鶴田もこの技にギブアップしています)。そこから「全日本プロレス」を主戦場とし、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスらを挑戦者に迎え、防衛戦を行いました。1980年代初頭まで「NWAの象徴」として圧倒的な存在感を示し、通算8度の戴冠で「ミスターNWA」と呼ばれました。まだ若手だった1968年2月に、「日本プロレス」に初来日したときが初の海外試合で、「本当に成長させてもらった。海外で試合したが、日本は特別で思い出深い。あれが分岐点」と特別の思いを語っていました。

 私には忘れられない試合があります。ジャイアント馬場さんが、ここ一番で出す必殺技ランニング・フライング・ネックブリーカー・ドロップで、ハーリー・レイスからNWA王座を奪取した後の防衛戦。試合を押し気味に進めた馬場さんが、グロッギー状態でマット中央に横たわるハーリー・レイスを置いて、コーナーポスト上段に上がり始めます。あの巨体の馬場さんがです。会場の観客からはどよめきが起こります。でもあの巨体、どうしても時間がかかります。なんとポストに上がった馬場さんは最上段から、リング中央に横たわるレイスめがけて巨体を宙に舞い飛ぶのです。フライング・ボディープレスですね。虫の息だったレイスも、時間がかかったために回復しており、密かに薄目を開けて馬場さんの動きを読むと、両膝を立てて馬場さんの巨体を迎撃します。もろに両膝に身体を打ち付けた馬場さんは悶絶。3カウントを聞きます(一度ベルトは取らせるが、リターンマッチでは返してもらうという取り決めがあったことなど、当時の私が知る由もありません。めちゃ悔しかったのを覚えています)。私はその試合をテレビで見ていて、「普段やらないことをやってはいけない」という「教訓」にしたものです。馬場さんは二度もレイスからこのベルトを奪取しています。いかに馬場さんの政治力がNWA本部で大きかったかの証明ですね。レイスの得意技は「ダイビングヘッドパット」。コーナーポストから相手の体めがけてものすごい距離を飛んで仕留める危険な必殺技で、馬場さんやジャンボ鶴田も何度もフォールを奪われています。今では単なる痛め技となっている「ブレーンバスター」も美しい必殺技で、ご本人は「バーティカル・スープレックス」と呼んでおられました。まさに垂直落下に落とす危険な必殺技でした。

 全日本プロレスへの昭和期最後の参戦を経てWWFに移籍。WWFでは元・NWA世界王者という肩書きは抹消され、代わりに王冠とケープを纏った「リングの王」というギミックの「キング」ハーリーレイスを名乗りました。これはNWA世界王座への戴冠歴に触れずにレイスの格にふさわしい扱いをするためのギミックであると同時に、同じくキングを名乗っていたジェリー・ローラーへのWWFからの当てつけでもありました(当時のローラーは反WWFの急先鋒の一人でしたから)。2004年には、プロレス界での功績を称えてWWE殿堂に迎えられています。

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