「小林秀雄の径」と「玉の湯」

 年間400万人の観光客が訪れる町となった「湯布院」の三大名宿・御三家(亀の井別荘、山荘無量塔(むらた))の一つと言われる高級老舗旅館「玉の湯」。私は2015年に初めて泊まって、いっぺんにファンになってしまったお宿です。約3,000坪の広大な敷地にわずか16室。雑木林の中に、「離れ」が点在する「玉の湯」は、庭を眺めながら四季の移りかわりや、雑木林に飛んでくる由布院の鳥や虫たちなど自然を楽しめる宿です。全室に掛け流しの木風呂や、北欧の白木のベッドなど、すべてがゆったりとした造り。その土地のものを食す「地産地消」を目標に、新鮮な地場の野菜、豊後和牛、豊のしゃも、鮎、山女などの恵まれた食材が、より美味しく感じられるように丹念に調理されています。この「玉の湯」はたくさんの文筆家に愛されてきたことが知られています。そのうちの一人に、小林秀雄(こばやしひでお)氏がいましたが、彼が「玉の湯」で過ごすのに特に好きな季節は、桜を愛でる春であったそうです。「玉の湯」には桜の木がたくさんあります。京都の三代目桜守・佐野藤衛門が選定し、「玉の湯」まで植えに来てくれたものもあると聞きました。私が泊まったのは秋でしたが、ぜひ春にも訪れてみたいと思います。

 小林秀雄さんが好んで訪れた宿が「玉の湯」なのです。『本居宣長』を執筆中に筆が進まないときには、編集者がここに連れてくると、機嫌良く書き始めたそうです〔笑〕。小林さんは、ここの経営者、溝口さんにアドバイスをして、離れの部屋の回りを雑木林にしたりして、現在では、由布院温泉随一の人気旅館になっています。雑木林を通ってロビーまでの導入路は「小林秀雄の径」と言われています。ここが「玉の湯」の入口。

▲「小林秀雄の径」

 小径の入口で出迎えてくださった宿の方に案内されて玄関へ向かいます。拍子抜けするほど小ぢんまりしたフロントで、有名旅館にありがちな敷居の高さを感じません。玄関を入ると最初に通されるのが宿泊者専用の談話室です。滞在が深まると良さが分かって来ます。5人の専属庭師が日々手入れして、絶妙のバランスでこの光景を生み出しているのです。手を入れ過ぎず自然体でありながら、確実に手は入れられている。宿のあらゆる局面で同じポリシーを感じるので、理解が自然と深まり、最後には中庭に「玉の湯」らしさが凝縮されていると感じるほどです!

 談話室から見えるお庭がまあ素敵です。ウエルカム・ティーを頂きながらチェックインをすませ、夕食の時間とコースのメインディッシュを相談して決めます。談話室には本が沢山あって、自由に読むことができます。クラシック音楽が流れ、コーヒーの無料サービスもあります。併設されている「ティールームニコル」は小説家C.W.ニコルに由来するカフェで、ガラス越しに広がる木立を眺めながらコーヒーをいただきます。ここのアップルパイが有名です。

 たしかに、居心地のよい旅館でした。10畳間ぐらいの部屋に、隣りが寝室で二つのベッド。その奥に、お部屋専用の掛け流しの檜の温泉風呂が。そして、居間の前の廊下越しに素敵なお庭が広がっています。お部屋でいただく地産地消の夕食も最高でした。

 お風呂上がりは、薪の燃える暖炉のある、談話室兼図書室でゆっくり。さすが、『小林秀雄全集』がそろっていました。大分県出身の筑紫哲也さんや建築家の磯崎 新さんの本も(由布院駅の設計もしました)よく見かけました。それに、昭和初期からの”文藝”や”新潮”の雑誌もずらり。小林秀雄さんもここでくつろがれたのでしょう。





 「玉の湯」は3,000坪という広大な敷地に客室数はわずか16。屋根付きの回廊で結ばれています。私がこのお宿を好きになったのは、取り巻く美しい環境と質の高いおもてなしだけではありません。旅から帰るとすぐにこんな達筆の筆によるお礼状が届いたのです(写真上)。一流のお宿は、こうやってお客さんの心をぎゅっとつかんで離さないのですね。♥♥♥

▲雑木林の中にはなれの客室が

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