アンドルー・カーネギーの財産処理に学ぶ

 アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie 1835-1919)という大富豪がいました。今アメリカで日本製鉄の買収が話題となっているUSスチール社」の生みの親で「鉄鋼王」として名高い人物です。アメリカの製鋼業を世界のトップにのし上げるのに最大の貢献をしたことで有名です。後年、特に熱心に行ったのは、図書館への寄付でした。彼の資金提供により、アメリカはもちろん、世界で1,600ヶ所もの図書館が開設されました。カーネギーはまた、教育関連の支援にも協力を惜しみませんでした。ピッツバーグにあるカーネギー・メロン大学の設立に寄与したのもその一つです。その他にも、数千台におよぶ教会のオルガンの購入、ニューヨーク市でのカーネギー・ホールの建設や、教育振興を目的としたカーネギー財団設立などのプロジェクトにも尽力しています。

 彼は医者の手も借りず、助産婦の世話にもならずに生まれました。それほどまでに貧乏世帯だったのです。初めて働きに出たときの賃金は1時間2セント。それが後に4億ドルもの資産を築き上げるのです。彼の若かりし頃を見てみましょう。

 彼は少年時代、腹に子を宿しているウサギを一頭つかまえました。たちまち子ウサギが何匹も生れましたが、それを育てるための餌がありません。これは困ったなと思った途端に名案が浮かんで、彼は近所の遊び仲間に宣言しました。「クローバーの葉だのタンポポの葉だの摘んできてくれないか。この子ウサギを育てるんだ。その代り、摘んできてくれたお礼に、君たちの名をこの子ウサギの名につけてやるよ」この計画が魔法のように効を奏したといいます。後年、アンドルーは、企業家としてもこの心理学を利用しました。例えば、ペンシルベニア鉄道に鋼鉄製のレールを売りこみたい。その頃、ペンシルベニア鉄道の社長はJ・エドガー・トムソン氏でした。するとカーネギーはピッツバーグ市に大工場を建設して、J・エドガー・トムソン製鉄所と名を付けます。当然、トムソン氏は大喜びです。自分の名のついた製鉄所から売り込みにくると、レールを買い込むのにあまり手間はかからないわけです。
 カーネギーは若い頃、ピッツバーグ市で電報配達夫をしていたことがあります。日給わずか57セント、それが当人には大金だったのです。何しろ知らない土地のことですから、土地不案内の者は不適当とされて、いつ首になるか分かりません。そこで市の商業地域にある会社の名と所在地を片っ端から暗記しました。その上、何とかして電信技手になりたい。そこで毎晩遅くまで電信の勉強をしながら、朝は早く電信局へ駆けつけてキーを叩いて練習していたのです。
 ある朝のことです。フィラデルフィアからピッツバーグへ引っきりなしにじゃんじゃん電信がかかってきました。しかし当直の技手はまだ来ていません。そこでカーネギーが飛びついて受信すると、自分でそれを配達して廻りました。たちまち電信技手に取り立てられて、給金が二倍にはね上りました。とにかくいつも胸に大志を燃やして精いっぱい頑張るので、たちまち目をつけられるわけです。やがてペンシルベニア鉄道が独自に電信線を設置することになり、カーネギーは電信技手に採用されます。次いで電信課主任づきの私設秘書に抜擢されます。ある日突然、ちょいとしたことからカーネギーは億万長者への道を歩み出すことになります。汽車の中で隣り合わせた乗合客が発明家で、これが僕の発明した新式寝台車の模型です、と見せてくれたのです。その頃の寝台車というのは貨車の両側に粗末な寝棚を釘づけにした程度でしたが、見せてくれた模型は現代の寝台車にかなり近いものです。カーネギーはスコットランド人の血を引いて鋭い先見の明がありました。この発明は当るぞ、物凄く当るぞ、と彼は見てとりました。そこで借金して新式寝台車を製造する会社の株を買ったところ、配当がすばらしく高くなり、カーネギーが25歳の時、この投資からの配当だけで年収5,000ドルに達しました。
 ある時、鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になりました。その時カーネギーは電信課の総主任でしたが、木造の橋はもうだめだ、これからは鉄橋の時代だぞ、と彼は将来を見通しました。そこで借金をして会社を起し、鉄橋の製造を始めたところ、たちまち目が廻るほど利益がぞくぞく舞いこみました。神話のミダス王は触れるもの何でも黄金に変える力を神から授かったといいますが、アンドルー・カーネギーもまさにそれで、することなすこと当り通しでした。素晴らしい幸運がついて廻るのです。友達数人と共同でペンシルベニア州西部の油田の真中の農場を4万ドルで買いこむと、一年間にそれが100万ドルになりました。27歳の時は一週間当り1,000ドルの収入があったといいます。それがつい15年前は日給20セントで働いていた男なのです。
 やがて1862年になり、大統領はリンカーン、南北戦争の真最中です。物価はどんどん上り、大事件が続々と起こります。西部開拓が進行してミシシッピ川の彼方まで開発され出しました。こうなると大陸横断鉄道が絶対に必要です。各地に次々と都市が勃興します。驚くべき新時代の敷居を踏んで、アメリカ全土は興奮していました。そしてアンドルー・カーネギーはその製鋼炉からさかんに炎と煙を立てながら、どこまでも繁栄の波に乗って進み、遂に人類の歴史に前例のない巨万の富を蓄積したのでした。

 彼こそが真の富豪だと思います。「自分が築いた富の使い道を考えずして死んでしまうのは、真の富豪ではない」と彼は言い残しています。世の常として、資産家が巨万の富を残して死んでしまった時、後に残るのは醜い遺産相続争いです。富の処分まできれいにやってのけて、あの世に旅立って行くのが真の富豪です。その処分の方法に三通りあるというのが、カーネギーの考え方でした。
 まず第一は、子孫に残すという方法。これはあまりいい方法ではありません。「児孫の為に美田を買わず」というように、働かなくてもいいほどの財を残した場合、ほとんどは子供たちを駄目にしてしまいます。そういった例は枚挙にいとまがありませんね。
 次に、社会福祉に寄付するという方法です。しかし、あまりに社会福祉が進み過ぎると、怠け者の人間を大量に作り出してしまいます。現にアメリカでは、親子三代にわたって生活保護で暮らしている人間がいるといいます。社会福祉の最も進んだスウェーデンは、当初は世界中から羨望のまなざしで見られていました。しかし今では税負担が重く、国民があえいでいます。なぜなら職を失うと、前職の給料の90%を国が保証するからです。そうなると、汗水垂らして働いている人間が馬鹿を見ることになります。その結果、誰も働こうとしなくなります。確かに、高齢者や身障者などの弱者に対する福祉は絶対に必要です。しかし、健康で働ける人々への福祉は人間を駄目にするばかりなのです。若い人達に対しても失業保険が支払われるというのはいかがなものでしょうか。
 そこでアンドリュー・カーネギーの提唱する財産処分法は、やる気のある、セルフヘルプ(自助)の精神の持ち主を援助するというものでした。しかも、全額援助ではなく一部援助です。具体的には、例えば地方の図書館に寄付をしました。ただし、建物から本まで丸抱えで面倒を見るのではありません。あくまで建物だけの寄贈です。本は自力で集めるように仕向けます。カーネギーホールも全く同じ発想です。イベントまで援助するのではありません。奨学金というのも大変いい財産処分法です。若くて誠実で能力があって、しかもやる気があるけれど、お金がない人々に投資するというのは、個人のためにも、国家の将来のためにもいいことです。「一年先を考えるのなら、金を貯めよ。十年先を考えるのなら、木を植えよ。百年先を考えるのなら、人を育てよ」と言います。人を育てるために、学びたい人に育英資金を貸しつけるなどは、最高の方法でしょう。これこそ、自分か社会から得たお金を、社会に還元するということなのです。活きたお金となって、お金が天下を駆け巡るのです。

 彼は生涯に合計たった4年間しか学校へ行きませんでしたが、旅行記・伝記・随筆・経済など著作は8冊もあります。公共図書館へ寄付した金は計6,000万ドル、教育制度改善のための寄付も計7,800万ドルに及びます。彼はスコットランドの民衆詩人ロバート・バーンズの詩はすべて暗誦していたし、ウィリアム・シェイクスピアの 『マクベス』 や『ハムレット』、それに『リヤ王』『ロミオとジュリエット』『ベニスの商人』も、全篇そらんじていました。どの教会の信徒でもありませんでしたが、各地の教会へ寄贈したパイプオルガンは総数で7,000台にもなります。彼が一生の間に各方面へ寄付した金額は合計3億6,500万ドル、つまり、毎日100万ドルずつ満一ヵ年間、寄付し続けたことになります。カーネギーは、その巨万の富をどう使うのが最も賢明であるか、賞金を出して「名案コンテスト」を催した新聞社さえ一社にとどまりません。カーネギー自身が、「金を残して死ぬのは恥辱だからね」と公言していたからです。♥♥♥

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