辰野金吾

▲『ノジュール』最新号

 昨年末に『ノジュール』12月号(JTB出版)が届きました。その特集記事に「東京駅丸の内駅舎と辰野金吾」があり面白く読みました。私は辰野金吾(たつのきんご)さんの建築が大好きなんです。

 エジソンが白熱電球を生み出した1879年、辰野金吾は工部大学校(現・東京大学工学部)の第一期生として、政府が招いたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルから西洋建築を体系的に学び、建築家には藝術の素養が大切だということを学びました。入学試験の成績は最下位でしたが、首席で卒業したという大変な努力家です。4人いた卒業生は皆、日本で最初の建築家として活躍するわけですが、とりわけ首席だった辰野は官費留学生としてロンドン大学で学び、建築会社で実習をし、その後ヨーロッパ(イタリア、フランス)でさらに深く建築に関わっていきます。建築はその国の文化や歴史に基づいたものでなければならないことを学びました。帰国後は大学での建築教育にも貢献しながら日本銀行本店などを設計。“辰野式”と呼ばれる建築が全国に建つようになるのは、民間の建築家として事務所を立ち上げた1903年以降のことです。その後200以上の建築物を手掛けたと言われており、現存するものの多くは重要文化財に指定されています。北は北海道、南は辰野の故郷である佐賀県まで、それぞれが街のシンボルとして愛され、観光スポットとしても人気を博しています。現存する辰野金吾の建築物は、東京駅を含めて全国に24件あります。全部制覇したいと密かに狙っていますが、今日は私の出かけた4件を取り上げます。

 さて、そんな辰野金吾の建築ですが、その特徴はなんと言っても赤レンガに白い花崗岩でラインを描いた華やかな壁面と、屋根に塔や小屋を載せて形成される賑やかなスカイラインが特徴の“辰野式”と呼ばれるデザインでしょう。東京駅に代表されるように、重厚で趣のある外観は、多くの日本人の心に深く刻まれているはずです。とは言っても、それだけにとどまらないのが辰野金吾の魅力でもあります。「旧松本邸」ではアール・ヌーヴォー建築を取り入れ、「南天苑」では和風建築を手掛けました。建物それぞれに宿った個性に思いを馳せるのも、辰野建築を巡る楽しみの一つです。辰野金吾の代表作として真っ先に名前が挙がるのが、1914年に竣工した「中央停車場」こと東京駅です。しかし当初は辰野ではなく、ドイツ人技師のフランツ・バルツァーが設計するはずでした。なぜ辰野が請け負うことになったのかというと、理由は単純明快。バルツァーが提案した「レンガ造りでありながら、瓦屋根に唐破風をあしらった和洋折衷のデザイン」が日本政府に不評だったからです。西洋化を推進する政府としては、純西洋風の建物が良かったのです。それは、辰野にとって願ってもないチャンスでした。何せ、建築家人生において、絶対に手掛けたいと思っていたもののうちのひとつが中央停車場だったのですから(ちなみに、他は日本銀行本店帝国議会議事堂。後者だけが叶いませんでした)。依頼が来たのは、現在の東京大学工学部である帝国大学工科大学の教授を辞した1902年の翌年のことでした。

▲335mの正面長 堂々たる存在感

▲美しいドーム天井

 辰野が設計したのは、3階建て全長約335メートルにもなる、レンガと鉄筋造りによる駅舎です。その建築様式は諸説ありますが、いくつもの伝統的な西洋建築から独自に生み出したものであり、まさしく「辰野式建築」と呼ぶにふさわしい出来映えです。関東大震災でもびくともしなかったほど堅牢で(「辰野堅固」と呼ばれる)、震災当時は堂々と建つその姿に、多くの人が励まされたことでしょう。しかし、そんな頑丈な駅舎も、1945年の東京大空襲によって3階建ての駅舎は2つのドームと屋根、内装を焼失してしまいます。戦後すぐに修復されたものの、資材不足から元通りとはいかず、特に損傷のひどかった3階部分が撤去されるなど、見た目も大きく変わってしまいました。現在の姿は、2000年代に入ってからの復原計画によるものです(2012年に復元)。八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも、当時の意匠を見事に復原しています。細部に至るまで辰野の設計に基づいた本来の東京駅の姿を見られるのは、ある意味、時代を超えた奇跡なのかもしれません。ちなみに、ドームの8つの干支にはこぼれ話があり、4つの干支(子卯午酉)が足りないことが長らくの謎でした。しかし、東京駅と同時期に改修が進められていた辰野の故郷・佐賀県の「武雄温泉楼門」から、足りない干支が見つかったというのです。何かの意図があってのことなのか、それとも気まぐれの遊び心だったのか。辰野の思惑に思いを巡らせながら、東京駅を訪れてみてはいかがでしょうか。

 二つ目。大正・昭和初期までの北海道・小樽市は、「北のウォール街」と呼ばれるほど銀行街として栄えた街でした。当時建てられた重厚な西洋建築はその多くがまだ残っており、中でも一際存在感を放っているのが、辰野が手掛けた「日本銀行旧小樽支店」です。1912年に竣工したこの建物はレンガ造りの2階建てで、外壁にはモルタルを塗り、石造り風に仕上げています。ルネサンス様式が取り入れられ、4つのドームや4階建ての望楼があります。内装は昔ながらの洋風の銀行といった風情。2002年に銀行としての業務を終え、現在は日本銀行の歴史や業務を紹介する金融資料館として運営されています。

▲日本銀行旧小樽支店金融資料館

 三つ目。「大分銀行赤レンガ館」(旧本店)は、大分市中心街のランドマークであり、金融・経済のシンボルであると同時に、文化を含めて大分県の近現代史を見守り、語ってくれる建築で、国登録有形文化財です。大分市に現存する明治の洋風建築の唯一のものです。なんだか東京駅とよく似ているな、と思ったのもそのはず。設計は明治建築界の重鎮であった辰野金吾、片岡安により手がけられ、明治43(1910)に「二十三銀行本店」として着工、3年後の大正2年(1913)に完成しました。東京駅を手掛けた「辰野片岡建築事務所」(辰野金吾・片岡安)により設計されました。辰野金吾は明治以降の日本建築界を背負った人物であり、日本銀行本店東京駅の設計で有名ですね。彼と組んだ片岡安も有名な建築家で、後に大阪商工会議所の会頭をも務めました。鉄筋コンクリート造り2階建、煉瓦タイル貼、天然スレート。市の中心部で、ひときわ目を引くレンガ造りの建物です。英国から取り寄せた赤レンガのタイル壁に白い花こう岩の帯を巻き、丸と四角の窓の連なりが美しく、特にランタンを持つ八角形ドームの屋根は「辰野式ルネッサンス」と言われ、そのクラシカルなたたずまいが街の人々に親しまれています。現在館内は、県物産品を販売するショップやカフェとなっていて、大分市内の観光コースでも人気のある名所となっています。

▲大分銀行赤レンガ館

 4件目。奈良公園内に、明治42(1909)年に誕生した「奈良ホテル」。関西における国賓・皇族の宿泊施設として「西の迎賓館」の異名も持ち、チャップリンヘレン・ケラー、オードリー・ヘップバーンなど、世界中のVIPをたくさん迎え 入れてきました。建物は東京駅日本銀行本店などを手掛けた建築家・辰野金吾によるものです。歴史ある調度品も数多く見られます。私は天皇陛下も泊まられたお部屋に泊まることができ、感激でした。♥♥♥

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