柴田紘一郎先生ご逝去

 尊敬する医師の柴田紘一郎(しばた・こういちろう)先生が、2月19日にお亡くなりになりました。84歳でした。宮崎大宮高校から長崎大学医学部に進学し、長崎大医学部を卒業後、30歳代の頃(1971年~1973年)、同大熱帯医学研究所員としてケニアに渡り、過酷な環境下で医療活動に従事しました。そのケニアでの経験や思い出を聞いて、親交のあるシンガーソングライターのさだまさしさんが作詩・作曲したのが楽曲「風に立つライオン」です。この曲のモデルになった先生です。柴田先生は、さださんが設立した慈善活動を支援する「風に立つライオン基金」の永久名誉顧問にも就任しておられます。さださんは「半世紀以上のお付き合いでした。大好きな、素晴らしい兄貴でした」と追悼のコメントを寄せました。

 生前、柴田先生は、ケニアでの経験は、医師として自分がどうあるべきか、また患者とどう向き合えばいいのかにつながっていると話しておられました。

「医者が患者から奪ってはいけないもの。それは命ではない。心なんだ『希望』なんだと。命が心につながってきますから、その心を大切にするような医療を続けていきたいし、そういう今からの医療であってほしいなと」

 かつて英語を教えていた松江北高二年生(当時)の安樂万智子(あんらくまちこ)さん(現在は薬剤師として活躍中)を、中国ブロック代表として、2013年8月22日(木)、宮崎市民ホールで開催された「第33回高校生英語弁論大会」(全国国際教育研究協議会主催)に引率しました(全国第4位⇒コチラに詳しく)。そこで私はこの柴田先生「運命的な出会い」をすることになります。この大会のゲスト講演講師に、あの柴田紘一郎先生がいらっしゃったのです。さらに運命とは恐ろしいもので、安樂さんのお父さんは、当時「松江日赤」のお医者さんだったんですが、長崎大学の学生時代に、柴田先生に直接ご指導を受けておられたのです。こんな偶然って本当にあるんですね!そんな不思議なご縁で、私も柴田先生とお知り合いになることができました。宮崎から帰ってから、後日先生に講演のお写真をお送りしたところ、丁重なお礼状もいただきました。また、このブログも見ていただき、身に余るお言葉をいただくことができました:「先生のホームページも拝見させていただきましたが、英語科の教師としてすばらしい英語教育に、またあまたの一般事象への高いご見識を常に発信されている姿勢に感銘いたしました。」(柴田紘一郎)

▲2013年宮崎での講演会にて 柴田紘一郎先生

 さだまさしさんのコンサートでは、いつもアンコールに歌われることの多いこの曲の壮大なスケールとエネルギーに圧倒されるばかりでしたが、柴田先生「僕もいつか風に立つライオンのようになりたい」と謙虚です。「まさしさんはこれは僕の歌だと言うけど、これは『風に立つライオン』という歌であって、自分はこの歌のヒントになったに過ぎない。だけど僕はあなたの描いたライオンに一歩でも近づくために、これからもがんばっていきます」と、実にカッコいいのです。映画化の際のさださんのコメントです。

 ケニアにある長崎大学熱帯医学研究所から帰ってきたばかりの柴田紘一郎先生に出会ったのは僕が二十歳の頃です。40年以上も昔のことです。
 彼の語るケニアを聞き、その言葉のひとつひとつに憧れ、いつか歌にしたいとプロの歌い手になってからずっと思っていました。そして、ようやく15年かけて自分なりのケニアが身体の中に育ち、「風に立つライオン」という歌ができあがりました。
 歌い続けるうちに、その歌は驚くほど多くの人達の心に強く働きかけるようになっていきました。この歌を聴いて医療従事者を志したり、青年海外協力隊に参加する若者がたくさん現れました。日本を離れ、海外で頑張っている医師も少なくありません。また、ある女性 はケニアでマサイ族の勇士の夫人となりました。少しずつ、沢山の人々の人生を変えていきました。そんな歌を僕は他に知りません。
 大沢たかおさんもこの歌を愛してくれる一人で、彼の熱い思いによって、ついに映画になりました。
 自分で作った歌というより、神様にいただいた歌なのだと感じていますが、これほど多くの方に愛され、影響を与えた歌を書いたという責任も感じていますし、少しでも海外で頑張っている人達の応援をしたいという思いで、今回、28年振りに歌い直したシネマ・ヴァージョンを配信でリリースして、売上の一部をチャリティとして寄付することにしました。
 再録にあたり、新たに渡辺俊幸くんにリアレンジしてもらいました。元々8分半もある長い曲なので、映画の主題歌としてエンドロールで使っていただくには長すぎると思い、短くするつもりでしたが、オーケストラを使ったより雄大なアレンジになり、逆に40秒も長くなってしまいました。にもかかわらず、三池監督はフルコーラス、エンディングの一番いいところで使ってくださり本当に感激しています。ただ、映画に感動して泣きたいのに、自分の歌を聴いて泣いているように思われるのは嫌なので、できれば映画は、誰もいないところで、一人きりで見たいなとつくづく思います。(さだまさし)

 医師を目指した理由を聞かれると、「非常に月並みですよ。何も変わったことは思っていないんですよ。小学校一年生の頃、親同士が国鉄ということで仲がいい女の子がおったんですよ。その女の子のお父さんが五右衛門風呂に入とってですね、板から出ていた釘が足に刺さって、七日後に死んだんですよ。今でいう破傷風ですね。まあ、元気で身近な人がいきなり亡くなると、悲しいですよね。皆さんと一緒で、非常に月並みな理由なんですよ。子供心に、非常に悲しかったんですよ。」と。さらに医者の良い点、悪い点を聞かれると、こう答えられました。

 医者の良い点というのは、我々はどこにいても、例えば無医村にいても都会にいても、相手となる患者さんというのは尊厳価値においては同一じゃないですか。どういう所にあっても全力で仕事ができるというところでしょうか。悪い点は、医者の中には“自分が治している”と勘違いしている人がいる、ということでしょうね。患者さん自身が治ろうと、治そうとしているのに、医者はそれを神様と共にちょっと手助けするだけなのに、“自分が治している”と思い上がった心を持ってしまう…。まあこれは僕だけの意見ですけどね。

 「理想の医者」を聞かれると、「僕の独断と偏見ですけど、臨床医は芸者ですよ。患者さんは心身ともに悩んでいるのですから…。医者は常に向学心を持ち、芸の心をもって、患者さんに尽くすこと。これが理想ですね。」と。

 柴田先生が若い頃の、ガン患者の奥さんの話が映画の中にも出てきました。これは実話です。肝臓ガンが見つかりすぐに処置しなければ危険な若い奥さんが、「大学病院にしか入らない」と言い張ります。当時病院のベッドが一杯で、ベッド一つ空けられないくらいのペーペーの頃の柴田先生は、自分の信頼する他の病院を世話しようと、再三再四、自宅に足を運んでまで入院を説得。でも、その奥さん、頑なに「ベッドが空くまで待つ」と言い張り、二ヶ月経ち、三ヶ月経ち、半年が経ち、結局、手遅れで亡くなりました。柴田先生は、周りの反対を押し切り、よせばいいのに、責任を感じ、その奥さんの通夜に行くのですが、お焼香もさせてもらえません。悲しみに怒り狂う旦那さんが「お前が家内を殺した!」と罵倒、「力足らずで申し訳ありませんでした」としか言えませんでした。その重荷を生涯、ずーっと心に抱き続ける、そんな素敵な先生です。

 毎年、教え子の多くが医学の道を志します。彼らに柴田先生の大好きな一言を贈ります。自戒したいですね。

突然の事故。救急車で運ばれ、病院到着。
ドクター、ナースの顔を見てホッとする私に
「最悪だよな」
「先生と当直すると最悪の患者ばかりですね」と一言ずつ。
そんな中、「もう大丈夫ですから頑張ってくださいね」
看護学生のその一言に、
思わず涙が一粒こぼれた。   (児島美恵子)

 柴田先生はこうおっしゃいます。「医療に携わって何年か経つと、どうしてもこのドクターやナースのように思う日が出てくるんですよ。僕だってそうですよ。でも、それじゃあいかんと…。初心を忘れるなとは、このことなんですよ。あなた方は今、ここに出て来る看護学生と同じ立場なんです。その気持ちをずっと忘れないでほしい。僕が言いたいのは、ただそれだけなんですよ」――初心忘るべからず」ということですね。

 そして2015年、大沢たかおさんの主演で「風に立つライオン」が映画化された際には、宮崎市清武町の介護老人保健施設で、施設長を務めておられた柴田先生から「映画館に5人連れて行くように」との指示が届きました〔笑〕。多くの人を「松江東宝」(現在閉館)に案内して、約束を果たしました。実に感動的な映画でした。人生にはこうした不思議な運命・偶然の出会いというものがあるのです。映画を見終わって館内が明るくなって帰ろうと立ち上がった時に、私の席の後からいつもお世話になっている高梨泰至先生(高梨眼科)ご夫婦に声をかけられてビックリしたのもいい思い出です。♥♥♥

▲大ヒットした映画「風に立つライオン」

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