渡部昇一先生のエピソード(39)~本多静六博士の財産論

 本多静六(ほんだせいろく)先生は慶応2年(1866)、埼玉県久喜市に生まれましたが、9歳の時に父親が急死。多額の借金を抱えて、貧しい生活を余儀なくされます。貧窮の中でも勉学に勤め、14歳の時には家を離れて、岩槻藩の塾長だった嶋村泰が東京に開いた塾に書生として住み込んで勉強を続けました。農繁期には帰省して農業や米つきに励んでいます。明治17年(1884)に東京山林学校(後の東京大学農学部)に入学しますが、入学時の成績は50人中50番目で、第一学期の試験に落第してしまいます。悲観のあまり古井戸に身を投げますが死にきれず、一念発起して勉強に励み、卒業時には首席となって銀時計をもらい、ドイツに留学し林学博士となりました。帰国後は、東京帝国大学農学部教授として教鞭を執るかたわら、国立公園事業に尽力しました。 

 若い頃、故・渡部昇一先生(上智大学名誉教授)に教えていただいて、本多静六『私の財産告白』を読んで大きな影響を受けました。本多先生は86歳でお亡くなりになりましたが、亡くなられる約一年前に「これまでもたくさん本を書いてきたが、それらとはまったく異なった本を書く」として書かれたのがこの本でした(著書は370冊にも上ります)。本多先生がこの本に込めた意図は、序文に明らかです。「今ここに長い過去を省みて、世の中には余りにも多くの虚偽と欺瞞とご体裁が満ち満ちているのに驚かされる。私とてもまた、その世界に生きてきた一偽善生活者の一人で、今さらながら慙愧の感が深い。しかし、人間は八十五の甲羅を経たとなると、そうそう嘘偽りの世の中に同調ばかりもしておられない。偽善乃至偽悪の目をかなぐり捨てて真実を語り、本当の話をしなければならない。これが世のため人のためにもなり、それが我々老人相応の役目であると考える」そして本多先生は、こうも語っています。「特に財産や金儲けの話になると、今までの社会通念においては、いかにも金儲けの話は心事陋劣のように思われ易いので、本人の口から正直なことは言えないものであるけれども、金の世の中に生きて金に一生苦労し続けるものが多い世の中に、金について真実を語るのが少ないのも、皆にそう思われるからである。しかし、やはり財産や金についての本当のところは、世渡りの真実を語るには必要欠くべがらざるものであるから、もっとも大切な点をぼんやりさせておいて所謂処世の要訣を説こうなどというのは、およそ矛盾である」そこで、お金について自分の全てを語り尽くす、ということで書かれたのが、この『私の財産告白』でした。実際、この本の中で本多先生は、お金についてざっくばらんに語っておられます。そこには一点の偽りもないように思われます。だからこそ、この本は格好の人生の手引書にもなっているのでしょう。渡部先生は、この本を読むことによって、初めてお金というものの本当の姿が分かった、と述懐されます。この本に書かれているお金についての考え方に共感し、大きな影響を受けた、と述べておられます。深遠な哲学書を読むよりも、実生活にはるかに役立つ名著と言うべきである、と(写真下)。

 私がとても参考になったのは、収入の「4分の1」は有無を言わずに貯蓄に回す。いくらでもいい、収入があった時、容赦なくまずその4分の1を天引きして貯金してしまう。そうして、その残りの4分の3で生活を押し通す。あらゆる通常収入は、それが入った時に、自動的に天引き4分の1を貯金してしまう。さらに臨時収入は全部貯金して、通常収入増加の基に繰り込む。これを方程式にすると次のようになりますね。

  貯金 = 通常収入×(4分の1)+ 臨時収入×(10分の10)

収入の4分の1は有無を言わさず貯蓄し、残り4分の3で生活するのは、もちろんたやすいことではありませんし、最初は大変です。しかし本多先生は断固やり抜きます。通常収入に4分の1という「手かせと足かせ」をはめて、残りの4分の3で暮らすのは「はじめから4分の3のお金で暮らすのだと思えば、苦しくも何ともない」という腹決めをすることです。頭から使えるお金はこれだけだと考えて、腹を決めて生活をする。頑張って倹約に努めて、残ったお金を貯めようとしても、お金というのはなかなか残らないものなんです。若い時にこのやり方を教えてもらったことは、私の人生で非常に大きかったと思います。

 お金を蓄えようとすると、ともすればケチと言われます。しかし、お金が貯まり実力がつけば、ケチと言われた人でも気前のいい人に変じます。逆に気前がいいと言われ、一生ピーピーで過ごす人もいます。本多先生は前者の生き方を取ったのであり、これこそが本当の生き方ではないだろうか、というわけです。 そして、本多先生はさらに言います。「貧乏などは一時のものである。蓄財を心がければあれこれ言われるが、そんなことには耳を貸すな」目をつむり腰をかがめて一目散に走り抜ければ、目先の煙に巻かれてまごつくようなことにはならず、そこを突破して弾みがつく生活になる」「金を馬鹿にする者は金に馬鹿にされる。財産を無視する者は財産権を認める社会に無視される」これほど実際的で含蓄に富む処世訓はないでしょう。本多先生の処世の見事さは、蓄えた富の使い方を見れば、さらにはっきりとします。本多先生は蓄えた富のほとんどを、国立公園運動(日比谷公園、明治神宮、大沼公園、羊山公園、大濠公園等)などの公共のために使いました。その一つに本多奨学金の創設があります。本多先生の見事なところは、そのための基金を投資だけで運用せず、専門の知識を生かし、森林を持つことにしたところにも表われています。育った木を切って売り、それを奨学金に充てたのです。だから、戦後の猛烈なインフレ時にも、本多奨学金は何の支障もなく給付され続けました。それが苦学する有為な青年たちをどれだけ助けたことか知れません。この一事を取ってみても、本多先生の金銭哲学の正しさが分かろうというものですね。一般的にお金というと、誰もがこそこそした後ろめたい気配を帯びるものです。その中で、堂々とお金を自分の生き方の基礎に据えた本多先生の生き方そのものが、何よりも優れた処世訓になっています。本多先生『私の財産告白』の最後に、簡潔に人生の要諦を記しておられます。本多先生の生き方を背景に置く時、実に味わい深い言葉です。曰く、「人生即努力。努力即幸福」 お金があってこそ、凡人も知的生活を楽しめるのです。

 定年退職時には、夫婦二人で老後を暮らせるだけの財産以外の、蓄えた富の多くを国立公園運動など公共のために寄付したのです。山林の大部分もその収益を育英基金に充てるべく埼玉県に寄付しています。老後のための蓄えとして手元に置いておいた絶対に潰れるはずのなかった正金銀行南満州鉄道の株は、本多先生が80歳の時、大東亜戦争の敗戦でただの紙切れになってしまいました。普通の人なら絶望して悶死しかねないところですが、そこで「一国民として国家が潰れることなど予見しようもない。ジタバタしても仕方がない」ときっぱり悟り、くじけることなく、再び原稿料や講演料などの収入を貯蓄に回しつつ、慎ましやかな生活を送って、最晩年にまた再び寄付ができるほどの財をなしたのでした。見習いたいものですね。

    もう一つ、本多先生が心がけたのが「一日一ページ分(三十二字詰十四行)以上の文章、それも著述原稿として印刷価値のあるものを毎日必ず書き続ける」ということでした。勤労生活者が金を作るには、単なる節約といった消極策ばかりではなく、本職の足しになり勉強になる事柄を選んでアルバイトすることが重要だと考えたのです。しかも40歳半ばからは「一日三ページ」とペースが上がりました。370冊以上の著書を生み出し得たのは、この日々の積み重ねがあったからでした。 本多先生は、この貯金とアルバイトの集積を「雪達磨の芯」(ゆきだるまのしん)と呼ばれたのです。♥♥♥

 とにかく、金というものは雪達磨のようなもので、初めはホンの小さな玉でも、その中心になる玉ができると、あとは面白いように大きくなってくる。少なくとも、四分の一天引き貯金で始めた私の場合はそうであった。これはおそらくだれがやっても同じことであろう。(『私の財産告白』〈新装版〉)

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