母の思い~小林多喜二

 私は毎年生徒たちに「親を大切にすること。感謝の気持ちを持つこと」ということを繰り返し語ります。「親孝行したい時には親がもういないんだよ」ということも付け加えます。私自身も苦労ばかりかけた母親に、孝行したいと思った時には、母はもう旅立っていました。経済的にも少しは余裕ができ、家も建てて親孝行の真似事ができたのに…、という後悔ばかりが残ります。親の子どもを思う気持ちがどれほど強いものだったかは、亡くなってみて初めて強く感じるところでした。私も数々の想い出が浮かんできます。以前、境野勝悟(さかいのかつのり)さんの『日本のこころの教育』(致知出版、平成13年)を読んだ時に、母の子どもを思う気持ちの尊さを語るエピソードが載っていましたので、メモしておきました。この本は、著者が岩手県・花巻東高校で講演した時の講演録でとても勉強になります。

 昭和時代初期に、『蟹工船』という小説を書いた小林多喜二(こばやしたきじ、1903~1933年)という作家がいました(私はまだ読んでいませんが)。多喜二は叔父の世話で小樽高商(現小樽商科大学)まで卒業させてもらい、銀行に勤めます。当時の銀行は大変な高給で、一生涯楽に暮らせる程でした。しかし多喜二は貧しい人の味方となって小説を書き、武器を作るお金で皆に白い米のご飯を!と反戦を訴え続けたのです。そんな彼の小説は権力から危険思想とみなされ、当時の不幸な時代の風潮に災いされて、ついに多喜二は憲兵に逮捕されて刑務所に入れられてしまいました。刑務所で多喜二は二畳、一坪の部屋に入れられました。そこでの彼の仕事は真冬に雑巾を絞って床の上を拭くことでした。床は汚れてはいません。けれどもそれを毎日拭かなければいけないのです。疲れ果ててバタッと床の上に倒れると、憲兵が鞭を持って飛んで来て打ちました。もう目は腫れ、頭も剃られて、見るかげもない格好になりました。面会謝絶です。ところが、刑務所にも同情の涙があったんですね。一人だけ面会が許されることになりました。それは、北海道の小樽多喜二の帰りを待ちわびている母・セキさんでした。多喜二のお父さんはすでに他界しており、お母さんだけが家にいました。そのお母さんの所へ、刑務所から手紙が届きました。「三日後の11時から五分間面会を許す。五分でよかったら東京の築地署まで出頭しなさい」という手紙です。それをもらったお母さんが、「五分はいらない」と言ったのです。「一秒でも二秒でもいいから、生きているうちに息子の多喜二に会いたい」。そう言って、貧乏のどん底だったのですが、近所で往復の汽車賃だけを借りて(弁当代までは借りられなかったそうですが)、その夜のうちに、雪がパラパラと舞っている小樽駅を出発しました。今みたいに新幹線が走っているとか、特急列車が走っているとか、そういう便利な時代ではありませんから、雪が降ると、汽車はすぐ停まってしまうんです。すると多喜二のお母さんは、とことことホームを歩いて行って、駅長さんに次の駅に汽車が停まっているかどうか訊ねます。そして、次の駅に汽車が停まっていると聞くと、5、6キロの雪道を歩いて行って、前の汽車に乗り換えたというんです。駅員からも駅長さんからも、「おばあちゃん、だめだ、そんなことしたら危ない」と言われても、「こんなところで一晩待っていたら多喜二に会う時間に間に合わない」と言って、駅をつなぎにつないで、やっと当日の午前10時半に刑務所に着いたのです。

 憲兵さんが見て、あまりにも寒そうなので、お母さんのところへ火鉢を持って行きました。すると、お母さんは、「ああ、ありがたいけど、多喜二は火にあたってないんだから、私もいいです」と言って、よたよたと火鉢を持って面会室の端っこに置いてしまいました。今度はもう一人の憲兵が、朝の食い残りのうどんを温めて差し出しました。「お母さん、何も食べていないんでしょう、食べなさいよ」と。それでもお母さんは手を横に振って、「いや、多喜二は食べていないからいいです」と言って、よたよたっとしながら、そのうどんも火鉢のそばに置いてしまいました。疲れ果てて食べる気力もなかったのでしょうね。11時ぴったりに、多喜二が二人の憲兵に連れられて来て、母親の目の前に座りました。多喜二はもう、お母さんの顔を見ることができませんでした。ひたすらコンクリートの床に顔をつけて、「お母さん、ごめんなさい」と言ったきり顔が上がらないのです。ややあってから憲兵が二人来て、「ほら、お母さんだ、見ろ」と言って、グイと耳を持って多喜二の顔を上げました。お母さんは、しばらくその顔を見ていたけれども、目は腫れ、顔は痩せ細り、頭は剃られて、自分の息子かどうかもわかりません。お母さんは絞り上げるような声で、「多喜二か、多喜二か?」と聞きました。「はい、多喜二です。お母さん、ごめんなさい」多喜二はそう言ったとたん、パーっと滝のような涙を流して、再び床にひれ伏してしまったのです。お母さんも「たきじーッ」と泣き声で叫んだきり、もう何も話すことができません。二人が泣きながら鉄格子から差し出した手を取り合っている間に、たった五分の面会時間が、一分、二分、三分と過ぎていきました。見るに見かねて、憲兵がお母さんのところへやって来て言いました。「お母さん、お母さん、しっかりしてください。あと二分ですよ。何か言ってやってください」と。

 ハッと気がついたお母さんは、残りの二分間、多喜二に、繰り返し繰り返し、こう言ったのです。「多喜二ッ。おまえの書いたものは一つも間違っておらんぞーッ。お母ちゃんはね、おまえを信じとるよーッ」こう言い続けて、雪の小樽へ、ひとり帰って行ったんです。多喜二は一度は釈放されますが、すぐにまた逮捕されてしまい、死刑を待たずに獄中で拷問死します。その死の瀬戸際、憲兵が鞭を振り上げると、多喜二がしきりに何か言っています。しかし、口は動かしても、もう声になりません。コップに水を一杯やり、「何か言いたいことがあったら言え」と言うと、水を飲んだ多喜二は、震える手をやっと挙げて、臓腑から絞り出すような声で、こう言いました。「待ってください、待ってください。私はもうあなたの鞭をもらわなくても死にます。この数か月間、あなた方はみんなで寄ってたかって、私を地獄へ落とそうとしましたが、遺憾ながら私は地獄へは落ちません。なぜならば、毋が、おまえの書いた小説は一つも間違っていないと、私を信じてくれた。むかしから母親に信じてもらった人間は必ず天国へ行くという言い伝えがあります。母は私の太陽です。その母が、この私を信じてくれました。だから、私は、必ず、天国へ行きます」ときどき息を絶えながら、最後の力を振り絞って、そう言い切って、彼はにっこりと笑って、この世を去ったというのです。実は、多喜二のお母さんは、漢字が一つも読めないんですよ。片仮名がほんの少ししか書けませんでした。だから、息子の書いた難しい小説は一行も読んでいないのです。にもかかわらず、「おまえの書いたものは間違っていない。お母さんはおまえを信じておる!」と声を張り上げて叫んだのです。セキは自分の息子が悪いことなぞするわけがないと多喜二を信じ続けていたのです。拷問跡の残る遺体に、多喜二の母・セキは寄り添い、ずっと頬を撫で擦っていました。「ほれっ! 多喜二! もう一度立って見せねか! みんなのために、もう一度立って見せねか!」♥♥♥

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