益川博士の英語嫌い

 故・益川敏英(ますかわとしひで)教授(~2021年、享年81)が、2008年にノーベル物理学賞を受賞された際に、メディアから感想を求められて、「大してうれしくない。ノーベル物理学賞が欲しくて研究したわけではない」と言ってマスコミで大きな話題になりました。「あれはね、本当に腹を立てていたんです。あの時ノーベル財団から電話がかかってきて、『1時間後に世界に発表しますから受けてもらえませんか』と言うんです。いちおう『ありがとうございます』と言って電話を切ったんですが、だんだん腹が立ってきてね。賞というものは普通、数日前に内定を報せ、受けてもらえるかどうか返事を待つものでしょう?1時間後に発表なんて、受けて当然、辞退する人なんかいないでしょと言っているふうに聞こえました。だからつい、『大してうれしくない』と口に出たわけなんです。」私はこの話を聞いた時、ちょっとひとクセのありそうなこの偉大な研究者に、とても興味を抱きました。この愛すべき益川さんに「忙しい毎日でしょう」と話を向けたら、益川さん曰く「時間がないなんて言う人がいるけど、誰でも時間はいっぱいあるんだよ。勉強と恋愛の両立なんてできないなんて、そうじゃない、もっと勉強したくなるような恋愛をすればいいんだ」やはり普通の人とはひと味もふた味も違います。

「I’m sorry, I can’t speak English.」

 2008年12月8日、スウェーデンストックホルム大学で開かれたノーベル賞受賞者の記念講演の会場。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英教授は、演説の冒頭をこのように始めました。聴衆からは笑いが広がりました。すでに「英語のできない日本人学者」の話は、現地でも話題となっていました。続いて益川教授は日本語で演説を行い、聴衆は彼の後ろに映っている英語の字幕を懸命に読み下しました。

 これに先立ち、益川教授は、ノーベル賞受賞者に決まった後、英語での演説が慣例となっている授賞式で英語をしゃべらなければならないのなら、自分は行かないと宣言しました。すると、ノーベル賞委員会は、授賞式で日本人受賞者の演説を日本語で発表できるように配慮しました。だからといって、益川教授は全く英語が分からないのではありません。英語の論文を滞りなく読み、問題点まで指摘できる、いわば「机上の英語」なのです。当時の報道によると、海外に渡ったこともなく、パスポートも持っていなかったといいます。海外から招かれた講演や授賞式にも出席したこともありませんでした。しかし、興味あることにはとことん向き合い、素粒子物理学の分野で宇宙誕生の謎を解明する先駆的な理論を提唱して、素粒子の研究に大きな貢献をされました。いくら英語を運用するスキルに優れていようとも、語る内容を持たなければ何も語れないのと同等だ、ということを感じさせてくれるエピソードでした。

 益川教授は授賞式の後、あるインタビューの席上で、当時のパーティー会場であった出来事をこのように伝えました。「世界的な学者らを目の前にしていても話し合うことができず、非常に残念だった。英語がうまければそれに越したことはない」さらに益川教授は、「若者は絶対英語を喋るべきだ」と訴えました。国際化時代に英語ができなければ、自ら孤立するのと同じだということです。しかしその彼も、インタビューで、今後は英語の勉強をするつもりなのかという質問に対して「この年になって、どうして?」という反応を示していました〔笑〕。

 先生の英語嫌いは中学1年生の時からで、授業中に担当の先生に当てられた時に、単語・マネー(money)『モーネー』と読みました。するとクラス中が大爆笑に。先生までもが『モーネーか。確かにお金はすぐなくなるよな』とからかいました。それですっかり「英語は性に合わん!」と捨ててしまったのです。益川先生はその後ずーっと英語は苦手。でも英語の論文を人に訳してもらっていては商売にならないから〔笑〕、読むほうはできました。けれど、喋ったり書いたりはできません。論文は誰かを共著者にして書かせました〔笑〕。

「これから科学者になろうとする人は、そうはいかないでしょうね。かつて我々の学生時代はクイーンズイングリッシュでないといけないとされていたけれど、今では国際学会に行ってもインドなまりでもブラジルなまりでも、みんな平気で英語をしゃべってるから、日本人も下手でも気にしないでしゃべればいいんですよ」(益川談)

 子どもの頃は、勉強はせずに、面白いことには目がなくて、宿題なんかやっている暇はありませんでした。「子どもの頃は勉強はしなかったね。だって遊んでいるほうが面白いじゃない〔笑〕。宿題は信念を持ってやらなかった。一度、母が学校に「ちゃんと息子に宿題を出してください」と言いに行ったことがあって、先生に「毎日出していますが、敏英くんがやってこないだけ」と言われてバレた〔笑〕。怒られたけど、廊下に立たされるくらいたいしたことないよ」ノートはいつも真っ白。何も書き込むことはありませんでした。とにかく夢中になって遊んでいたそうです。もともと父親が科学好きで、銭湯からの帰り道に「月食はなぜ毎月起こらないか分かるか?」月の満ち欠けやモーターがなぜ回るのか、などいろいろなことを話してくれたので、科学に興味はありました。小学校の時には本の魅力に目覚めて、図書館で『十五少年漂流記』芥川龍之介や少年向けの江戸川乱歩などを夢中になって読むようになりました。本は子どもの頃から大好きで、誰より先に本が読めるからと、自ら立候補して図書委員になっています。高校生から古本屋をめぐり、数学の専門書を買ったりもしていました。当時の日本は数学の導入期だったので、「この学問がなぜ必要か?」というところから書いてあって面白かったと回想しています。決定的だったのは、高校1年生のある日、後に恩師となる名古屋大学の故・坂田昌一教授が世界的に画期的な学説・素粒子のクォークモデルの前身となる「坂田モデル」を発表したという記事を読んだことでした。科学は欧米のものだと思い込んでいたところが、こんな身近で世界的な研究が出来るんだということに目を見開かされたのです。自分の町で起きた大発見に興奮して、「ぜひ見学させてもらいたい。名古屋大に行きたい」と奮い立ちました。「自分も名大に入り、この先生と一緒に研究できたらどんなにいいだろう」とひそかに思ったといいます。それで、大学に行こうと思って、猛烈な受験勉強を始めたのでした。

 父は家業(家具工場→砂糖販売)を継げ、と圧力をかけてきましたが、継ぎたくなくて、食事時には父とけんか。母親が間に入ってくれて一度だけ受験を許してくれました。幼い頃のお父さんとの思い出があります。近くの銭湯には必ず父子一緒に行き、お父さんは湯船に浸かりながら、まだ小学生だった息子にいろいろなことを教えました。学校では習わないような難しいことを。いつしか益川さんも友達の中では抜きんでて物知りになりました。この父と子の“銭湯講座”が偉大な物理学者・益川敏英の原点とも言えるでしょう。さて、どうやって大学に受かろうかと考えた時に、英語を捨てて他で90%近く取ればいいじゃないか、という作戦を立てました。物理や数学の勉強は面白いから、自分にとっては遊びみたいなもの。作戦勝ちで、予想通りの点はとりました。試験問題も記述式が多かったのが自分には合っていたようです。ただ、大学に入ってからもドイツ語の試験は全部白紙。大学受験の時は総合点判定だったからよかったのですけれど、大学院に上がる時は、さすがに「こんな学生を通していいのか?」と議論があったらしいのですが、擁護してくれた先生がおられて助かったようです。

 「僕がいつも言っているのは、科学者も憧れとロマンを持て、ということです。時代のせいかもしれないけど、はちゃめちゃな子供がいなくなったね。先を見過ぎて、夢が小さくなっている。科学者だって、ドン・キホーテが騎士に憧れるように、野球少年がイチローに憧れるような夢をもちたい。そしていざやってみると、自分の予想と違うことがいっぱい出てくる。そこでいろいろ修正を加えていく。そうやって少しずつ、夢に近づいていく――でも、英語は大事だよ〔笑〕。」

 私の尊敬する鎌田 實(かまたみのる)先生(諏訪中央病院名誉院長)は、「苦手なことも魅力に変えてしまう人間性にとても惹かれました。人間はいびつであったり、とんがっていたり、クセがあったりするくらいのほうが面白いとぼくは思っています。」と語られました(「自分らしさの磨き方」『理念と経営』9月号、2025年)。本当にそう思います。♥♥♥

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