さださんの応援団

 8月6日の広島原爆投下の日に、同じ被爆地である長崎の空から歌うことによって、声高に「平和」を叫ぶことなく、集まった人々の心の中にある「平和」への想いを再確認する場にして欲しいとの思いから、歌手のさだまさしさんが、1987年に始めたのが「夏・長崎から」でした。長崎原爆忌は8月9日。しかしこの日には、全国各地から様々な人達が長崎に集まってきます。この日に狭い長崎の町でコンサートをやるのは、地元の人々にもいろいろと迷惑がかかるだろうと考え、それで8月6日、広島原爆忌の晩に想いを込めて広島の空へ向かって歌うことにしたのです。大きな借金苦の中で始めた無料コンサートでした。20年間にわたって彼がステージから言い続けてきたことはただ一つ。「このコンサートが終わるまでの間に、ほんの僅かな時間でよいから、あなたの一番大切な人の笑顔を思い浮かべて欲しい。そうしてその笑顔を護るために自分に何ができるだろうか、ということを考えて欲しい。実はそれが平和へのあなた自身の第一歩なのです。」

▲ナガサキピースミュージアムの五線譜モニュメント

 それを入場料無料で始めたのです。それは、広島原爆忌の晩に長崎で歌うという「平和を願う場所」は誰でも来ることのできる場所であるべきだ、という彼の強い思いからです。仮に1,000円でも入場料をとってしまえば、子どもや老人は留守番になる可能性があります。夕涼みがてらにみんなでやって来て音楽を聴く、これが「平和」の一つの姿であるという願いです。そういえば、やはりさださんが8年を要してグラバー邸下に建てた世界一小さな平和記念館「ナガサキピースミュージアム」(名誉館長 故・原田泰治)にある、空に高くそびえ立つ五線譜のモニュメントも、平和が無くなるとまず音楽から壊される、という思いからでしたね。意識して「平和コンサート」という表現を避けて「夏・長崎から」という名前にこだわった理由でもあります。しかし、心ない人たちは、「ただとは何か裏に別の意図があるのではないか?」「選挙に出るための事前運動か?」「偽善的な売名行為!」などと批判しました。気にならなかった訳ではありませんが、負けてはならぬ、と自分に言い聞かせてふんばりました。味方は少なく、何しろ手持ちのお金がありませんでした。ステージの建設費だけで一千万円近くかかる。舞台制作費、ゲスト、スタッフらの交通費・宿泊費を考えればざっと三千万円の赤字になります。映画「長江」の借金返済で苦しんでいた当時(28歳で金利を入れて35億円!)、この金額は決してたやすいものではありませんでした。途方に暮れたのは会社を仕切っていた弟(佐田繁理)さんやスタッフだったことでしょう。それでも血の出る思いで始めたのは、どうしても伝えずにはいられないさださんなりの「平和」への熱い思いがあったからだと思います。徐々に理解あるスポンサーも現れ始め(パナソニックなど)大規模になっていきます。それでも毎年費用1億円の半分近くはさださんの持ち出しでした。以降2006年まで、何と20年間も続きます。加山雄三さんはじめ、来生たかお、村下孝蔵、三波春夫、永六輔、笑福亭鶴瓶、谷村新司、南こうせつ、小田和正、堀内孝雄、泉谷しげる、森山良子、イルカ、白鳥英美子、都はるみ、前川清、松山千春、坂本冬美、山崎まさよし、はなわ、平原綾香、BEGIN、りんけんバンド、など錚々たるゲストの方々総勢171組がこのステージを飾ってくれ、観客動員もおよそ50万人に達し、20年かけてついに伝説のウッドストックを超えました。「広島原爆忌の晩に長崎で歌う」というさださんの思いを理解してくれたのは、NHKのプロデューサーと地元長崎放送。この「中継放送」を通しての「エール」をはじめ、長崎新聞社の援護射撃でした。

 孤軍奮闘。しかしそんな中で、たった一人だけ心強い味方がいました。長崎・新地中華街「江山楼」(こうざんろう)王國雄社長です。古い付き合いで、さださんは彼のことを「あんちゃん」と呼びますが、「あんちゃん」がこの時に言ってくれました。「借金苦のまさしがタダで歌を聞かせてくれるとに、市民が何もしないのは恥ずかしかけん。だからせめてゲストやスタッフの食事の面倒は俺がみる」と。以来20年間、70人から90人分の「前夜祭」のフルコース料理を毎年無料で提供し続けてくれました。私はそのことを聞いて以来、「江山楼」の大ファンになり、毎年絶品の「特上チャンポン」を食べに訪れています(⇒私の紹介記事はコチラ)。その「江山楼」が店を閉じた、という噂を聞きびっくりしました。新館は閉じたようですが、本館は相変わらずやっていると中華街のご主人からお聞きし、ホッとしました。フェイクニュースでした。

IMG_9006

IMG_8999 次第に味方は増え、さださんの背中を押してくれました。年々観客も味方もスポンサーも増え、状況は良くなり赤字の心配もほぼ要らなくなり、さださんにとってこのステージに立つことが「当たり前」に近くなってきました。たぶん観客の方もそうです。すると最初に歌った頃の「切実な叫び」が遠ざかった気がしました。さださんは自問します。

  • 最も借金していた頃に始めた思いはあれから20年を経て変化していないか?風化していないか?

  • 心の熱は下がっていないか?これが本当に必要なのか?

  • お客さんはどうなのか?これが本当に必要なのか?

  • 20年間訴えてきた平和への思いは伝わっているのか?あるいは無駄だったのか?

  • 子どもでも成人すれば(20年)親の手を離れてもいいのではないか?

  • 自分が永遠に続けられるものでもないだろう?

 これらを自分でもう一度客観的に見つめ直すために、一度現場を離れてみようという決意でした。長崎県は感謝状をさださんに贈ったり、稲佐山の野外コンサート会場を大規模ライブができるように改装したりの協力はしてくれていましたが、コンサート自体はさださん任せでした。長崎市民にとって夏の風物詩と言われるまでになった特別のイベントなのですから、行政ももっと協力してあげてもよかったのではないか?私はそんなことを思いながら、灼熱の太陽の下、長崎の街を後にしました。

 20年を支えてくれたのは多くの観客でした。スタッフでした。だからさださんは、心の中で彼らに「ありがとう、さようなら」と祈るように感謝しながら最後のステージを迎えています。あの苦しかった第一回の時から、おそらく毎年、今年が最後、という緊迫感の中で歌ってきました。長崎からの祈りや平和のメッセージは多くの人に届き、次の世代に必ずや生きるものと信じます。終演後、みんながさださんが「最終回」に何を感じたのかを聞きたがりました。この晩、観客の多くや出演者まで涙したのに、彼自身が歌いながら感極まったり泣いたりしなかったことが意外だったようです。もちろん、胸に去来するものは数え切れないほどありました。初めは疑念を持たれ、裹に何か意図がある、と。政治家になるための事前運動ではないか、あるいは偽善的な売名行為と。あの時、あの状況で、何故自分は歌い始めたのか?何を伝えたかったのか?その温度は変わっていないのか?エネギーは枯れていないのか?それを確認するために一度現場を離れることにしました。毎年、一曲目に飛び出してゆく時、ああ、今死んでも良い、という「覚悟」がありました。つまりさださんにとっては、毎回が最終回だったということです。それほど一所懸命に歌ってきたからこそ「最後だから」という感傷が無かったのでしょう。涙以上の何かを毎年流し続けてきました。だから泣く必要など無かったのです。翌21年目には、今度は長崎に原爆の落ちた日に、広島から(広島球場)平和への思いを歌い上げています。

 20年間続けたコンサート「夏・長崎から」の最終回を無事に終えました。深夜に及ぶ興奮の打ち上げの後、少し眠って、日常が還ってきました。あちらこちらに挨拶をして、夜、新地の「江山楼」へ行きました。現れたあんちゃんはいつもの笑顔で力強く僕の手を握り、「長い間、ありがとう」と言ってくれました。この時初めて涙が出ました。いつまでも止まりませんでした。「あんちゃん、本当にありがとう」と言おうとしましたが、言葉になりませんでした。さださんの「夏・長崎から」が終わりました。

 昨年の2025年には、被爆80年の8月6日、19年ぶりに平和の大切さを訴える無料コンサート「夏 長崎から2025」を、稲佐山公園野外ステージで再び開催しました。「今年で戦後80年、被爆80年という大きな節目ということに背中を押されて、あとで後悔してもいけないと思って、今年は強引にやる決意をしました」と、平和と生命の大切さを歌で届けるべく、2006年以来19年ぶりの復活です。戦後80年、被爆80年の節目に19年ぶりに復活させたさださんは、毎年たった一つのメッセージを繰り返してきました。「いま、あなたの大切な人の笑顔を思い浮かべてみてください。そして、その笑顔を守るために何ができるかを考えてみてください」この日は、それにあえて一言だけ付け加えました。「そして、自分が何をなすべきかが分かったら、そこへ向かって歩きだそうじゃないですか」。とても重い言葉です。分断と対立が続く今日の物騒な世界の中、自然と言葉に力がこもりました。♥♥♥

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