『英語青年』

 私は故・外山滋比古(とやましげひこ)先生(お茶の水女子大学名誉教授)のエッセイが大好きで、東大・京大で最も読まれたというベストセラー本『思考の整理学』(筑摩書房)以来、大ファンになって、全ての著作を読むようにしています。この本の冒頭に出てくるグライダー人間」「飛行機人間」の比喩は 、講演のネタにもよく使わせて頂いています。何よりも文章に味があって、こんな文章を書きたいものだ、と常日頃感じているんです。当時、日本で一番エッセイが上手かった人は、外山先生だと私は思っていて、生徒たちにもこの本を読むように薦めています。私が外山先生の名前を初めて聞いたのは、かつて「日本エッセイスト大賞」を受賞された愛読書、木村治美(きむらはるみ)先生の『黄昏のロンドンから』(文藝春秋)という本が、ロンドンから恩師の外山先生に宛てた書簡であったと聞いた時です。木村先生のお師匠さんとはどんな文章を書かれる人なんだろう?と思って読んだのがきっかけでした。私は若い頃、木村先生の美しい文章を書き写しては、一生懸命に真似る練習をしていた時期があるんです。

 以前、研究社から発行されていた英語雑誌『英語青年』の編集を一人でなさっていたのも外山先生でした。先生の『「長生き」に負けない生き方』(講談社α文庫、2016年)の中には、次のような実に衝撃的な下りがあります。

 若いとき、私はK出版社の嘱託をして、英文学の月刊誌の編集に当たっていた。いろいろ人に言えない苦労もして十二年、その雑誌のために汗をかいた。会社の経営方針がおもしろくないが、嘱託の分際でできることはなにもない。編集の仕事には未練があったが、思い切って辞めることにした。そのとき、いまにして思うとよけいな憎まれ口だったが、「十年もすればこの会社はおかしくなる」と幹部社員の何人かを前にして予言した。
 忘れているうちに十年がたって、K社が本当におかしくなってしまい、私の予言は不幸にしてまぐれ当たりをしたのである。その直前に、もう一度、社へ戻って仕事をしないかと誘いを受けたけれども、もちろん問題にならない。いまさらあらわれたらお化け幽霊であろう。私にはK社に対する温かい気持ちはほんのわずかも残っていなかった。ザマを見ろ、とまではいかないが、老舗が斜いたのを遠くから眺めていた。
 K社はメガバンクS銀行によって命をつないだ。社長としてS銀行の支店長が乗り込んできたという風の便りにもなんの興味もなかった。銀行屋に出版がわかるはずがない、結局失敗するだろうと無責任なことを考えた。(pp.128-129) 

 上の文章に出てくるK出版社」というのは老舗の「研究社」のことで、「月刊誌」というのは『英語青年』のことです。その研究社の凋落を予言しておられたのでした。先生が雑誌英語青年の編集に携わっておられたのは、1951年から1963年頃までで、当時まだ20代の後半から40歳頃で、最も精力と創意に満ちていた時期です。ご本人がこの時代を回想している文章はいくつかありますが、特にまとまって読むことができるのは、研究社から出た日本の英語、英文学です。そこでは「『英語青年』編集長時代の裏話」がかなり語られています。先生は、編集者とは著者同士・読者との間に科学反応を起こす存在だと考えておられました。「触媒としての編集者」「読者との対話」「雑誌を“生きた場”にする工夫」を貫かれていました。先生自身、「編集という行為が自分の著作の発想の中心にあった」と語っておられ、『英語青年』はまさに外山滋比古という思想家・編集者の土台を形作った原点でした。これが後の『思考の整理学』に通じたのでした。

 印象的な思い出話をいくつか挙げると――

●戦後まもない時代で、英文学界そのものがまだ「サロン」のように小さく、編集部には大学の先生や翻訳家たちが気軽に出入りしていました。

●原稿依頼も今のような事務的なものではなく、編集者が直接会いに行き、雑談の延長のようにして頼んでいました。

●若い編集者だった外山先生は、当時の大家たちの原稿を扱いながら、「学問」と「読みもの」の両立をどうするかに苦心しました。

『英語青年』は単なる英語学習誌ではなく、英文学・翻訳・外国文化の知的サロンの役割を持っており、そこには独特の自由闊達な空気がありました。

外山先生自身、「編集」という仕事を通して、後年の『思考の整理学』につながる「知識の編集」「発想の熟成」の感覚を学びました。

●座談会記事を多用した「対話の雑誌」という特徴があり、論文中心の学術誌とは異例とも言えるほど「話し言葉の論理」を誌面に持ち込み、筆者と読者の心理的距離を縮めようとしました。「書き言葉の論理では越えられない断層を埋めるため」と述べておられます。

●アイデアマンとしても知られ、「並行講座」「クリスマス号」「英語青年賞」後に『英語年鑑』として独立する「英語英文学研究一覧」などの革新的な企画を生み出しました。

●編集で一番力を入れたのは「片々録」埋め草でした。読者が難しい記事で立ち止まらないように、その近くにすぐ読める短文を置きました(英文学記事の横には英語学の埋め草、英語学の横には英文学の埋め草)。執筆者も豪華で大御所が500字の短文を書くという贅沢さでした。

 また、外山先生は編集者時代について、「編集者は黒子であるが、実は文化を動かす仕事だ」という趣旨のことをたびたび書いておられます。これは、後の代表作エディターシップにもつながっています。当時の『英語青年』編集部については、英語教師、英文学者、翻訳家、学生たちが雑誌を媒介にゆるくつながっており、「英語を学ぶ」というより、「英語文化に参加する」感覚があった、などと書いておられました。

 私が教員になった当時は、『英語青年』『時事英語研究』『現代英語教育』(いずれも研究社)、『ENGLISH JOURNAL』(アルク)、『英語教育』(大修館)、『言語』(大修館)、『言語生活』(筑摩書房)など数多くの言語雑誌が出ており、これらを全て読むことでずいぶん勉強になったものでした。ところが、英語教師が雑誌を全く読まなくなり、今ではこれらが廃刊になり、現在残っているのは『英語教育』(大修館)一誌だけです。これら数ある雑誌の中でも、最も権威があり格調が高かったのが『英語青年』で、月の始めの勉強はこの雑誌から始まるのでした。しかしどんどん発行部数が落ち込んでいき、松江北高出入りの今井書店の担当者から、「松江で『英語青年』を定期購読しておられるのは島根大学の先生一人と八幡先生の二人だけです」と聞いた時には、衝撃を受けたものでした。そしてまもなく廃刊になりました。♥♥♥

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