パール判事

 ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal, 1886年 –1967年)は、インドの裁判官・法学者です。極東国際軍事裁判(東京裁判)において、参加した11ヶ国の判事の中で唯一、25人の被告人全員の無罪(全員無罪判決)を主張した判事として知られています。彼は国際法の原則に基づき、戦勝国が作った「事後法」で日本の指導者を裁くことは不当であると論じました。東京裁判では、28人が起訴されましたが、病死・免訴などを除き、25人が判決の対象となりました。最終的には、東条英機ら7人が死刑、16人が終身禁固、東郷茂徳が禁固20年、重光葵が禁固7年となりました。

 1886年、英領インド・ベンガル州に生まれ、貧困の中で育ち、成績が良かったために奨学金をもらって勉強し、大学へ進学。インドのカルカッタ大学で法律を修め、法学博士を取得。同大学の教授や副学長を経て、カルカッタ高等裁判所のトップにまで上りつめた優秀な人でした。しかもイギリスには非常に協力的で、イギリス人の一番癪にさわらないタイプの従順そのもののインド人でした。だから、1946年に始まった東京裁判でもイギリスと同じ立場で発言してくれるだろうと期待して、イギリスは彼を送って寄こしたわけです。パール判事東京に着いて、裁判の行われる帝国ホテルに入ろうとして周囲を見ると、なんと、見渡す限りの焼け野原です。判事ははたと考え込みます。これはおかしい。周囲が全て焼け野原になっているということは、非戦闘員である普通の市民が住んでいるところがみんな焼かれたということです。しかも聞けば、10万人以上もの人々が焼け死んだといいます。ということは、どう考えても連合軍側の爆撃は、一般市民を対象としてなされたとしか考えられません。となると、この裁判は焼き払った方が、焼き払われ、殺された側を裁くことになります。こんな主客の転倒したおかしな裁判はない。パール判事はこうして、東京裁判を徹底的に批判する立場をとるようになるんです。

 パール判事は1,275ページに及ぶ詳細な「反対意見書(パール判決書)」を提出し、裁判の法的手続きおよび判決内容を強く批判しました。 勝者(連合国)が事後に作った「平和に対する罪」「人道に対する罪」という犯罪概念で、過去の行為を裁くことは法原則に反すると主張しました。勝者が敗者を裁く裁判の形式自体が不公正であり、連合国側の爆撃や原爆投下などの行為が問われない点を公平性に欠けると指摘しました。当時の国際法では開戦などの国家行為について個人を刑事責任に問う法体系は確立していなかったと論じました。

 裁判終了後も度々来日しては、日本の政財界や知識人と交流を行いました。原爆投下を「ホロコーストに匹敵する行為」と強く批判し、広島慰霊碑の碑文「過ちは繰り返しませぬから」に対して、「原爆を落としたのは日本人ではない」と指摘し、主語の曖昧さを問題視しました。1966年には「勲一等瑞宝章」が授与されています。

 日本国内では、東京裁判の不当性を主張する文脈や、日本を擁護した人物として評価されることがあります。一方で、パール判事の主張は、日本の侵略行為そのものを肯定・是正したものではなく、あくまで国際法上の手続きの正当性を追求した厳格な法論理です。東京裁判については、①戦争犯罪をどう裁くのか、 ②侵略戦争を個人の犯罪として処罰できるのか、 ③事故法の禁止をどう考えるのか、 ④戦勝国が敗戦国を裁くことは公平なのか、 ⑤南京事件など個々の戦争犯罪と、⑥指導者の責任をどう結び付けるのか、 など法律論と歴史認識が複雑に絡み合っています。

 靖国神社の境内には、パール判事の功績を称える顕彰碑が建てられています。私もお参りをしてきました(写真下)。日本が裁かれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)の裁判官総勢11名のうち、国際法のエキスパートは、このパール判事ただ一人でした。彼は、東京を焼け野原にした連合国が、焼け野原にされた日本を裁く資格があるのか?加害者が被害者を裁く構図になっているのではないか?と考えます。詳細に事実関係を調べたパール判事は、「侵略したのはむしろ連合国の方であり、日本は侵略国家とは言えない」と、日本無罪論をただ一人述べました。しかしながら、このパール判事の判決書は、「復讐法廷」であった東京裁判の判決には全く反映されることはありませんでした。法廷で朗読することすら許されなかったし、国内で公刊することも禁じられました。「勝者による儀式化された復讐」として、唯一、被告全員無罪の意見書を出したインド代表パール判事を顕彰するため、平成17年6月25日にここ靖国神社に建立されました。なお、平成9年にインド独立50周年を記念して、京都霊山護国神社にも同様の顕彰碑が建立されています。♥♥♥


(刻字)碑正面:
「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くにそのところを帰ることを要求するであろう」
「頌
ラダ・ピノード・パール博士は昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な史料の調査と分析に没頭されました。博士はこの裁判を担当した連合国十一箇国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。 博士はこの通称「東京裁判」が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。 その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学会に於ける定説と認められたのです。 私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。
平成十七年六月二十五日 靖国神社宮司 南部利昭」

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