オニツカタイガー

 鳥取県出身の鬼塚喜八郎(坂口喜八郎)さんが、終戦間もないオニツカ創業当時(「青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作って欲しい」と兵庫県教育委員会から助言され)のことです。義父母から見合いの話を受けました。見合いの相手は福岡在住の女性。鬼塚さんは承知しましたが、「ただし」と条件を付けました。「見合いのためだけに、福岡に行く余裕はありません。靴のセールスで九州を回って、その最後に福岡に寄って、見合いしてきます」と。いくら商売を兼ねてとはいえ、見合いに行くからには皮靴くらい新調しなければ…と思い、大枚5,000円をはたいて皮靴を買いました。そして、セールスの旅に出かけ、久留米のスポーツ店を訪問したあと、駅のベンチに寝ました。ところが、午前4時、一番列車の改札による客の声で目を覚ましてみると、新調した皮靴が盗まれているではありませんか。駅長室へ行って、草履でも分けてもらおうと思い、重たいボストンバッグを両手に提げたとたん、そうだ、オレは靴屋じゃないか、と気づきます。バッグには、見本として各種のスポーツシューズを詰め込んできています。鬼塚さんは、右足と左足に別々の靴を履いて、次の旅先・熊本へと向かいました。

 スポーツ店を訪問して、自社のシューズの優秀さを説明します。「わかった。じゃあその靴を見せてくれ」。「ハイ、これを見て下さい」と鬼塚さんは、自分の両足を差し出しました。「ほう……。これまでにいろんなセールスマンがきたけど、自分で見本を履いてきた者はいない。あんた、えらい熱心だな」と店主。得たりとばかり、「自分でこうして履いて実験しておりますから、この靴は絶対に大丈夫だと自信を持っておすすめできるんです」鬼塚さんが言うと、店主は「よっしゃ、立派なもんだ。気に入った」と、即座に注文をくれました。このケガの功名的な体験から、鬼塚さんは、作る人は使う人の身にならなければいけない。使う人の身になってモノを作れば、このように人を動かすことができる、という教訓を得たのでした。以来、鬼塚さんは、この教訓を商売に生かしていくことになります。オニツカの社員には、社内では自社製の運動靴をはかせていたのもその表れでした。プロ・アマのスポーツ選手に自社の靴を履いてもらい、その助言を得て改良に改良を重ねていったのもそうでしょう。

 国体、各種目別の日本選手権大会、インターハイなどの大きな大会の他、各地方のブロック大会にまで出向いていき、サービスコーナーを設けて、オニツカマンは選手と肌で接してサービスの万全とPRを図ると同時に、より良いシューズの追求に力を注いでいきました。その成果が、モントリオール・オリンピックで花咲きます。ラッセ・ビレン選手が5,000メートルに次いで、10,000メートルも制するや、履いていたオニツカシューズを頭上高く掲げてトラックを一周。世界の注目を「オニツカ」に集めさせる嬉しいハプニングが起こったのでした。

 たった一人で始めたゴム靴屋を、世界の「オニツカ」と言われるスポーツ用品メーカーに育て上げ、一部上場を果たしました(1977年アシックスに統合)。足かけ3年、二度にわたる闘病生活、結核菌に肺・腸・喉をやられ、血ヘドを吐き、血便を出しながらも、会社の宿直室の布団から指揮をとり続けました。声帯を破壊されて声が出ないために、その指揮は筆談でとったそうです。執念・覇気でもって病魔に打ち勝ちました。

 戦地で出会った先輩中尉に「自分が帰るまで鬼塚夫婦の面倒をみてやってくれ」と頼まれた男の約束を、律儀に守り鬼塚家の養子となって生活を支えます。実に男気のある人でした。最も尊敬する経営者は、あの松下幸之助でした。♥♥♥

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