コナン・ドイル

 

▲神戸の「英国館」

 60作品のシャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)物を書いたアーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle  1859―1930 )は、1859年にスコットランドの官庁事務所に勤める平凡な役人の家に生まれました。エジンバラ大学の医学部に入学します。大学卒業後、23歳の時に借家で医院を開業しました。診察室だけは何とか整えますが、他に家具は何も買えず、空箱を二つ置き、その一つを食卓に使い、もう一つに腰をかけ、水を飲みながらパンをかじって三度の食事を済ますという貧しい生活でした。患者さんはさっぱりやって来ません。有り余る暇に小説を書いては投稿を続けますが、みんなボツになって返送されてきます。とうとう切手代にも事欠くようになります。そんな時に、大学時代の恩師・ジョゼフ・ベル博士(1837―1911)のことを思い出します。毒舌家で観察眼が鋭くずば抜けていたベル博士をモデルにして、歴代最強の「シャーロック・ホームズ」なる名探偵を作り上げます。博士はドイルが大学で出会った人物の中で最も面白い人でした。痩せていて、黒髪で、鼻が高く、相手を射抜くような眼差しの灰色の目で、表情が鋭く、肩をいからせながら独特の歩き方をし、彼の診断は患者の職業や性格のことにでまで及んだといいます。「後年私が事件を独自の力で解決する科学的探偵を創造した時、博士の方法を増強しつつ応用したのも、不思議はあるまい」ドイルは回想しています。そして書き上げた長編の第一作が『緋色の研究』でした。しかしこれもあちこちの出版社で断られ、書き上げてから一年後にようやく短編並みの安値で某出版社から出版されました。自信作であったにもかかわらず、さっぱり評判にならなかったので、がっくりきてしまったドイルは、もう二度とホームズ物は書くまいと思いました。ところが、それから二年後、アメリカの雑誌の編集者の目に『緋色の研究』が留まって、関心を抱いて、前金まで添えて新作を依頼してきたのです。二度とホームズ物は書くまいと諦めていたドイルでしたが、この依頼に勇躍して書いたのが、ホームズ物の第二作長編『四つの署名』でした。1890年、ドイルが31歳の時の事でした。

 さて、アメリカの雑誌に載ったホームズ物第二作に、1891年に創刊されたばかりのイギリスの雑誌『ストランド』誌の編集者が着目し、ドイルに読み切り短編を依頼してきました。読み切りのホームズ物の短編は、一年間にわたって12編連載されて、一代センセーションを巻き起こし、『ストランド』誌の売れ行きをうなぎ登りに上昇させました(約50万部の発行部数)。以降ドイルは、ホームズ物は全て『ストランド』誌に発表します。爆発的な人気を獲得し、名探偵ホームズと作家コナン・ドイルの名前は、世の人々にしっかりと刻まれることになるのです。今日もなお世界の人々に愛読され続けている作品ですが、もしあの時アメリカの編集者がドイルに注目し新作を依頼していなければ、名探偵シャーロック・ホームズコナン・ドイルという作家も世に知れぬままに消えていたかもしれませんね。

 2023年9月には、NHKのEテレが「100分de 名著」シリーズに「シャーロックホームズスペシャル」として、英文学者の廣野由美子教授(京都大学)を迎えて、代表作の解説を行いました。写真上はそのテキストです。面白い番組でした。

 もうずいぶん前になりますが、ロンドンを訪れた際に、ベーカー街「The Sherlock Holmes Museum」(シャーロックホームズ博物館,5階建てにお邪魔したことがあります。行列に並んで入館し、いっぱい写真を撮りまくりました。登場人物の人形が至る所に飾られていました。シャーロックワトソンがかぶっていたデザインの帽子やパイプが置いてあって記念写真をおさめます。♥♥♥

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