渡部昇一先生のエピソード(34)~分からないことを恐れない

 尊敬する故・渡部昇一先生がまだ上智大学にお勤めだった頃、入学試験の面接でいつも苦笑しておられたことがありました。受験生に「愛読書は?」と聞くと、三人に一人ぐらいが決まって「夏目漱石!」と答えるのです。渡部先生漱石を読み始めたのは大学三年生の頃で、文系の大学生としてはかなり遅い方だったのです。なぜそんな年齢になるまで漱石を読まなかったかと言うと、どうしても面白いと思えなかったからでした。先生が面白いと思う本にはかなりの偏りがありました。なにしろ、当時講談全集や落語全集、そして、大好きだった佐々木邦という作家の全集は表紙が擦り切れるまで繰り返し読んでいるのに、夏目漱石森鴎外などは、一冊も持っておられませんでした。それでもと、大学に入って最初の夏休みに、漱石『草枕』を読んでみました。しかし、非常に薄い本であったにもかかわらず、最後まで読み通すことができません。どうしても面白いとは思えなかったのです。それが大学三年生の頃、教育実習で神楽坂のあたりを毎日歩き、上京して初めて「東京」というものを感じて以来、俄然、漱石が面白くなったと言います。神楽坂は、漱石が住んでいたあたりからそれほど遠くはありません。それまで知らなかった「東京」を肌で感じ、東京のインテリの体験を綴った漱石の小説が分かるようになったことが、先生の中で、漱石を面白いと思うようになったきっかけだったのです。

 愛読書に漱石を挙げる受験生が、決して嘘を言っているわけではないでしょう。おそらく、中学か高校の頃に読み始めて、それなりに面白いとは思ったのでしょう。しかし、先生が大学三年生の時に感じた面白さとは質が違うのではないかと思えてなりませんでした。例えば、『吾輩は猫である』は、中学生の必須読書本のごとくになっていますが、そこで繰り広げられているのは、当時の漱石が、寺田寅彦森田草平などを相手にして実際にしゃべっていたのと同水準の会話です。それを、中学生や高校生が読んで、心から面白いと思えるだろうか?ひょっとしたら、彼らは漱石を愛読したと思い込んでいるのではないか?こんな危惧さえ抱いてしまうのだ、と述べておられましたね。

 どうして渡部先生が、ここまでこの問題にこだわられるかというと、この「愛読したつもり」、「分かったつもり」という思い込みこそが、周囲に流され、自己の成長を止める危険があるからでした。先生の高校時代の恩師である佐藤順太(さとうじゅんた)先生は、分からないことを分からないとはっきりおっしゃる方でした(⇒この恩師の先生についてはコチラに詳しく紹介しました)。この先生を神の如く崇めていた渡部先生は、以降「分からない」ということを一切恐れなくなりました。つまり、自分の正直な実感を一番の拠り所にしたということです。だから、漱石も大学三年生で本当に面白いと思うようになるまでは読まれませんでした。難しいことを分かったように話すのが一種のトレンドであった大学でも、分からなければ、はっきりと分からないと言いました。分かったつもりになっていることからは、何も学ぶことはできません。ただ周囲に合わせて「知ったかぶり」をしているだけでは、何一つ得るものはないのです。私も漱石を読み始めたのは、大学一年生の時に、高校時代の恩師に『漱石全集』(岩波書店)をプレゼントしてもらってからでした(大学一年の学期試験で全科目「優」を取ったらプレゼントしてやるとの約束でいただきました。感謝!)。特に漱石の英語力に強く惹かれました。

 知識であれ何であれ、人の中に何かが蓄積されるとき、そこには、必ず自分自身の「分かった!」という実感があるものです。だから、しっかりと自分の頭で考え、面白いと思うもの、ぞくぞくするほど分かったと思うものだけを着実に積み上げていけば、その全てが、自分の血となり肉となるのです。読書にせよ、勉強にせよ、何にせよ、この已に対する忠実さこそが、真に人を成長させるのです。大切なのは、分からないものを分からないとし、分からないという状態に耐え、本当に分かったものだけを分かったことにすることです。周囲に流されない、考える頭を養うためには、この決意が不可欠なのだ、と強くおっしゃっておられました。渡部先生「つねに“知の驕り”を慎む」という謙虚な態度を実践なさっておられたのです。

 私の恩師故・安藤貞雄先生も、かつて「英語の理想の教師像」として、7つの教えを私に語って下さいましたが、その中の一つが次のものでした。

 生徒の質問にごまかさずに誠実に答えること。自信をもって答えられない場合は、十分に調べた上、後ほど報告すること。(生徒に誠実でありたいと思うならば、このような措置は当然であろう。)

 私は「分からない」ことは「分からない」と言います。そして分かるまで調べ上げます。一つの疑問の解決に10年以上(!)要したこともあります。生徒たちにも日頃から「自分の疑問」を大切にするように強調しています。♥♥♥

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