悪事の多くは美名に隠れて行われる

 私が子どもの頃には、大人から、偉い人、立派な人の伝記を読め、読めとよく言われたものです。そうやって心に残った偉人がたくさんおられます。本屋さんにも「偉人伝記コーナー」というのがあったように思います。心を豊かにしてくれたり、大きな夢を描くのにとても参考になったものです。今はもう伝記物を読む子どもは少ないのでしょうね。子ども向けの伝記というのは、その人物の一生を分かりやすく魅力的に綴っています。立派に生きた人間、成功した人間の生涯から、育てられ方のエピソード、両親にゃ学校の先生、友達との交流まで、豊富に出てきます。子どもは自分の身と引き比べながら、無意識のうちにいろいろなことを学ぶのです。「人間とはこういうものなのだよ」と、苦難を克服する術を理解して、「こんな人生もあるんだ、自分もこのように生きてみたい」という思いにさせてくれるのです。ぜひ子どもたちに伝記を読ませたいですね。

 ラムゼイ・マクドナルド(Ramsay MacDonald、1866~1937)はイギリスの政治家であり、イギリスの最初の労働党首相となりました。スコットランドで貧農の子に生まれ、若い時から労働運動に身を投じ、ついに1924年に、最初の労働党出身の首相となったのです。その人の逸話です。

 1924年の冬のある夜、ロンドンの混みあっている地下鉄の中に、吊り革につかまってじーっと立っている60歳ぐらいの老紳士がいました。その広い高い眉の下に考え深く澄んでいる二つの瞳、その覆いかぶさった厚い口髭の下に、強い意志力を示すようにキリッと引き締まった唇。どう見てもマクドナルド首相に違いありません。しかし、まさか今をときめく大英帝国の総理大臣が地下鉄に乗っているわけがありませんね。そう思ったのですが、とうとうグラント氏は声をかけてしまいました。
 「もしもし、マクドナルドさんではありませんか」
 するとその老紳士は、
 「やあ、グラントさん」 と答えます。
 「ああ、やっぱりマクドナルドさんでしたか。なぜこんなに遅く地下鉄なんかでお帰りになるのですか。自動車がどうかしたのですか?」
グラントが聞くと、マクドナルドは笑って答えました。
 「自動車はありますがね、あれは役所の自動車ですから」
 グラントは、なるほどと思います。
 「しかし、あなたは今、大英帝国の運命を双肩に担う大切なお方です。帰りだけでも自動車で楽に体を休めたほうが国家のためではありませんか?」
 マクドナルドは元の厳粛な顔になりました。
 「ごもっともです。しかしグラントさん、悪事の多くは美名に隠れて行われるものですからね
 この言葉を聞いてグラントはいたく感服しました。イギリスの総理大臣であっても、労働党の出身のマクドナルドは自家用の自動車は持っておらず、高潔なる良心の持ち主である彼は、公務でない帰り道は地下鉄で帰る。ロンドンの富豪であったグラントは、保守党に属し、政治的にはマクドナルドの敵なのですが、このような立派な総理大臣に精一杯働いてもらえるようにするのは国民の義務だと思いました。そこで翌日、一台の高級自動車を買ってマクドナルドに寄付したのです。自分は総理大臣だからといって、役所の車を私用に使って帰っても構わないというのはごく普通の考え方です。「首相がくたびれないように」という理屈もつくでしょう。そういうもっともらしい意見の下で悪事が行われるものなのだ、とマクドナルドは言っているのです。そんな凛としたマクドナルドの姿勢に感服して、大金持ちのグラントは、政敵にもかかわらず、一生懸命国民のために仕事をしてもらおう、と自動車を贈ったのでした。今ではちょっと考えられない、古き良き時代のイギリスの話です。「悪事の多くは美名に隠れて行われる」。日本の(悪徳)政治家たちに聞かせてやりたい言葉ですね。♥♥♥

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