コピー機

 私の学生時代には「コピー機」などという便利なものはありませんでした。後半登場したものの、とても学生に利用できるような値段でもありませんでした。手元にない資料はもう手で写して記録するしかなかったのです。もう勉強になるものは徹底的に写しまくり、右手が真っ黒になるまで、ひたすら写しまくって勉強していました。懐かしいものでは、井上義昌さんの各辞典の記述はよくノートに写していましたね。友人からノートを借りても、ひたすら筆写するのでした。私が教員になってからも、コピー機は高価なもので、今みたいに職員室で自由にコピーできるのではなく、利用するにも印刷室で使用者名とカウンターの数字を備え付けの記録簿に書いてコピーさせてもらう時代だったんです。

 今ではコピー代も安くなって、何でもかんでもコピーを取れる便利な時代になりましたね。ところが、仕事にしろ勉強にしろ、要領よくやるものの、本当に身になる勉強や仕事をしていない人も多いようです。本来非常に便利な知的生産のための道具が、人々を一層怠惰にしてしまうこともあるのです。機械を駆使するあまり、機械の奴隷になってしまい、自分の知的生産の向上に役立てているとはおよそ言いがたい側面があるのです。コピーも、盛んに使われている割には勉強のためにはあまり役立っていません。昔なら、他人からノートなどを借りて、それを自分の手で写すしか方法がありませんでした。そこには大きな学びがあったのです。コピー機もあるにはありましたが、非常に高かったので、自分の手で写し取るほうが安上がりでした。それがコピー機の発達で、コピー代が非常に安くなり、学生たちもノートを引き写すよりはコピーを取っておくほうが便利だということになったのです。ところがコピーの弊害は、コピーを取ると、内容まで読んだ気になってしまうということです。コピーというのは、何かを保存して後から読むための道具なのですが、コピーすればそれで学習が終わってしまったような「錯覚」を与えてしまうのです。そしてコピーを取ったきりで読み返すこともしない。これでは結局、「目的」「手段」の逆転ですね。何か仕事をする際には、はるか先のことまでもいっぺんに考えてはいけません。そうする必要は全くないのです。何かちょっとしたひとかけらでもいいから、自分の手や足を使って実際にやってみるという精神が大切です。コピー機ワープロの発達は、手で筆記するという肉体的な苦痛を軽減してくれこそしましたが、その代わりに、うまずたゆまず努力して勉強するという姿勢を失わせ、知識をインスタントに求めようとする怠け者を増加させることになってしまったのです。

 私たちが使う辞書もそうですね。紙の辞書⇒電子辞書⇒タブレット⇒スマホと、どんどんと便利になる中で、紙の辞書が売れない「冬の時代」になってきました。でもやはり紙の辞書で勉強するのが一番力がつきます。「英語の力は辞書を引いた回数に比例する」というのが私の信念です。たまたま開いたページの思わぬ所から、全く予期もしなかった情報を拾うことができます。便利な物に走るあまり、お手軽な知識を求めるだけの人間を増やしてしまっています。調査によれば、最近は一カ月に一冊も本を読まない若者が増えているといいます。彼らはユーチューブの方が手軽で便利だと言います。悲しいことです。原点回帰をしなければなりませんね。♥♥♥

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