磯崎 新

▲私の大好きな「ゆふいん驛」

 世界的な建築家としてその名が知られる磯崎 新(いそざきあらた)さんが、2022年12月28日、老衰のためにお亡くなりになりました。91歳でした。私の大好きな建築家でした。磯崎さんは1931年大分県生まれ。1954年に東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三(たんげけんぞう)さんの指導の下で建築家としてのキャリアをスタートさせました。1963年には建築事務所「Arata Isozaki & Associates」を設立し、約60年にわたってアジアやヨーロッパ、北アメリカ、中東、オーストラリアなど、世界各地で100以上の作品を手がけました。福岡や故郷の大分において、街のランドマークとなる建築を次々と生み出しました。大分の学園理事長、当時の北九州市長、福岡相互銀行(現・西日本シテイ銀行)の社長などの理解者が、自由で独特な発想を持つ若き磯崎さんに活躍の場を与えたことが、後の大きな飛躍につながりました。重要作品としては、北九州市立美術館(1972〜74、福岡)、水戸芸術館(1986〜90、茨城)、アリアンツタワー(2003〜14、ミラノ)、カタール国立コンベンションセンター(2004〜11、ドーハ)、上海シンフォニーホール(2008〜14、上海)などが挙げられ、このほか、ロサンゼルス現代美術館バルセロナオリンピック屋内競技場など世界各地で作品を手がけて、国際的にもとても高い評価を得ました。1996年に参加した「第6回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」では、阪神大震災の廃墟を再現した展示を発表し、「金獅子賞」を受賞しました。2019年には、建築界で最も権威ある賞で「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるアメリカの「プリツカー賞」に選ばれ、「東洋が西洋文明の影響を強く受けていた時代に海外に出て、みずからの建築術を確立した真に国際的な建築家だ」と評価されました。丹下健三槇文彦安藤忠雄妹島和世+西沢立衛伊東豊雄坂茂に続き、8人目の日本人受賞者となりました。私のとても大大好きなJR由布院駅を設計したのも磯崎さんでした(写真上)。雑誌『芸術新潮』10月号(2023年)が追悼特集「いまこそ知りたい!建築家磯崎新入門」を組んでおり、磯崎建築の真髄の解説を面白く読みました。

 1945年広島に原爆が落ちた当時、磯崎さんはまだ14歳でした。大分の実家から対岸にある広島の惨状を目の当たりにした磯崎さん、その後、長崎にも落とされた原爆と戦争の記憶は、彼の作品の根幹を成す原体験となりました。

 私はグランドゼロで育ちました。建築もビルもなく、街さえもなかった。だから、私の建築の最初の経験は建築の空白であり、私は人々がどのように家や都市を再建するかを考えるようになりました。

 磯崎さんは、師匠の丹下健三さん同様に、「大文字の建築家」でした。時代や社会を象徴する記念碑的な建築、例えば官庁や駅、美術館などの公共建築が含まれます(対して「小文字の建築」は住宅)。戦後日本の建築家の多くが、民衆を意識して住宅から公共建築まで幅広く手掛けていた中にあって、二人は特異な存在といってよいでしょう。磯崎さんは、建築とは人の目を奪い、心震わせるようなものでなくてはならないと考えていました。その一方で、天皇や国家や資本には回収されたくないとも語っておられましたね。

 最近、私が訪れた「別府国際コンベンションセンター ビーコンプラザ」(1995年)も磯崎さんの作品です。巨大な横長の体育館のように見える長方形の建物の中に、「フィルハーモニーホール」「大分県立別府コンベンションホール」が同居している、バブル時代の豪華な施設です。そのお隣には高さ125メートルの「グローバルタワー」がそびえ立っています。エレベータで上がった高さ100メートルの地点にあるガラス張りの「展望台」から見た、ところどころで湯煙が上がっている別府の街並みは最高です。♥♥♥

▲別府国際コンベンションセンター「ビーコンプラザ」

▲グローバルタワー

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